お金が卑しいものであるというのは本当か? 〜お金とは自分の命そのもの〜

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お金は自分の命そのものである。

お金が卑しいものであるというのは本当か? 〜お金とは自分の命そのもの〜

・お金の話をすることは卑しいと言われる
・武士道における経済観念
・ぼくたちは命を捧げてお金を稼いでいる
・お金を流すことで精神が浄化する

・お金の話をすることは卑しいと言われる

お金というものは、ぼくたちが生きていく上で最も重要な道具だ。ぼくたちの人生はお金によって左右されると言っても過言ではないかもしれない。それゆえに、お金について調べ上げ、思考し、語り合うという機会を日常で儲けることは大切だ。

お金を得るための労働という現象について、自分で稼いだお金を自動的に奪われる税金をなるべく奪われない方法に関して、自分の創造により収入を得ることに関して、またお金からお金を生み出す方法について倦むことなく議論は有益であり、今後の人生や生活に大きく関わってくる部分だろう。

しかし身内ならばともかく、よその人とお金の話をするというのはなんとなく下品だとか、卑しいと思われている気配がしなくもない。お金に関する情報を共有することはかなり重要であるにも関わらず、なんとなく尻込みしてしまいどうでもいいくだらない会話ばかりを他者としてしまうという機会も多い。ぼくたちはもっと学問的に、自分たちの人生や生活のために、お金を卑しいものではなく生きていくための最良の手段として、もっと潔くおおらかに議論することはできないのだろうか。

 

 

・武士道における経済観念

新渡戸稲造の「武士道」の中の内容によると、武士道においても、金銭はかなり卑しいものとしてとらえられていた節があるようだった。

”さむらいは金銭そのものを嫌い、儲けることや貯めることを軽蔑する。さむらいにとって金銭は不浄なものだった。堕落した世の中を表現する決まり文句も「文民は金銭を愛し、武士は命を惜しむ」というものであった。金銭や命を出し惜しめば非難され、気前よく差し出せば賞賛された。よく言われる教訓にも「何より金銭にとらわれてはならない。富めば知恵が出なくなる」というのがあるほどだ。したがってさむらいの子供は、経済とは全く無縁のままで育てられた。経済のことを口にするのははしたないこととされ、貨幣の価値を知らないことはむしろ育ちがいい証拠だとされた。

数の知識は、軍勢を集めたり、恩賞や知行の分配をするのに不可欠ではあったが、金勘定は身分の低い者の手に委ねられた。多くの藩において、財政は下級武士や僧侶が担当した。道理をわきまえた武士ならば、金がなければ軍資金すら賄えないことをよく知っていたが、それでも金銭を大事にするのを美德だとするまでには至らなかった。

武士道が節約を旨としていたのは事実であるが、それは経済的な理由からではなく、節度ある生活を送るためであった。贅沢は人間の最大の敵だと考えられ、さむらいは極度に質素な生活を送ることが求められた。そのため多くの藩では贅沢を禁止する法律が出された。

歴史書を読むと、古代ローマでは、税金の取り立てなど、金銭を扱う役人が騎士に抜擢されたりしている。ローマ帝国が財務担当者の役割や、金銭そのものの重要性を大いに評価していたことがわかる。そのことが、ローマ人が贅沢で強欲だったということと大いに関係しているであろうことは想像がつく。武士道ではそうではなかった。財務的な知識は低く評価され、道徳的、知的な素質より下に見られていた。

したがって武士道は、金銭や金銭欲を努めて無視していたため、金を原因とする様々な害毒に犯されることがなかった。これが我が国の役人が長いこと腐敗から逃れられた大きな理由である。”

 

・ぼくたちは命を捧げてお金を稼いでいる

しかし、お金という物質や現象は言われるほどに下品で卑小なものなのだろうか。ぼくたちの人生とお金との関わり合いを見ていけば、お金とは自分たちの命そのものであるということもできる。

ぼくたちは労働をし、その結果としてお金を稼ぐ。労働とは生きているという貴重な尊い時間を自分のために使わずに他人の役に立つために費やし、その結果として生きていくためのお金を得て、それが自分のためのお金だから労働は自分のためなのだと自らの心を納得させながら暮らしている。

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しかし、自分の若くて健やかな時代というものは、果たして月30万円ほどの給料の価値しかないものなのだろうか。ぼくたちは、老いて病んでから喉から手が出るほどに欲しいと願うだろう若く健やかでなんでもできる時代というものを労働、すなわち他人や集団へと捧げ、その代替として給料を得ている。とすればお金というものは、自分の生きている時間そのものではないだろうか。自分の尊い命が姿かたちを変えたものがお金だと言っても、決して過言ではないだろう。

お金という自分の大切な時間の決勝、自分の尊い命について、真剣に考えて思いを巡らせることは当然のことであると言えよう。そして自分の尊い命をむやみやたらと穢され踏みにじられることがゆるせないのと同様に、自分のお金を理不尽な形で根こそぎ奪われることに納得してはならない。

 

 

・お金を流すことで精神が浄化する

ぼくたちは自分の命の化身であるとも言えるお金というものを、人生のうちでどのように使っていくべきなのだろうか。理不尽な搾取からまぬがれ、愚かな文明の消費の促しを無視して、自分がその精神の根源から願っていることに対して、大切に大切にお金を費やしていくべきではないだろうか。

だからと言ってお金を大切にしすぎて、消費することに慎重になりすぎて、何ひとつ消費しなくなると、不思議なことに人間の心はたじろぐ。自分というものを中心としたお金の流れがなくなると、それが滑らかに流れていくことを望むようになる。買い物が人間にとってストレス解消になるのも、お金が流れていくことが人間にとって非常に心地いいものだからだろう。

自分の命の分身のようなお金を大切にしたいのは山々であるものの、お金を蓄え続けるだけでお金を流さないと、人の心はストレスを抱えもどかしさを覚える。お金というものはふさわしく流れ行くものであり、流れることによって人の心は心地よさを感じて安定する。富を蓄えるのみで、お金を不動で固定的なものにするよりも、お金を適切に流し、循環させることによって人の心は喜びを得る。人の心とお金の関係は不思議だ。

ぼくはふと、紀伊山脈の旅のことを思い出していた。穏やかで人々が住みやすく、都や街が作られた水の流れの穏やかな平野よりも、紀伊山脈の中の荒々しい大自然の方が、ぼくの精神の性質に馴染んで感じられた。水でもお金でも、淀んでいると、濁り穢れてくる。それらに変化を与えて、差異を与えて、激流を生み出したいという願いこそ、ぼくが古来の日本から受け継いでいる民族的な感性なのかもしれない。

ぼくが人間であるというのは本当か?

 

 

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