熊本城がまだ崩れ去っている状況を悲しむべきだというのは本当か?

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3年前の地震の傷跡がまだ…。

熊本城がまだ崩れ去っている状況を悲しむべきだというのは本当か?

・ぼくの車中泊九州一周の大冒険
・熊本城の城壁が崩れ去っていた思い出
・カンボジアのベンメリア遺跡の思い出
・ベンメリア遺跡がぼくたちに教えてくれること
・熊本城の崩壊とベンメリア遺跡の崩壊
・目の前の景色に間違いなんてありはしない 〜思い込みからの解放〜

・ぼくの車中泊九州一周の大冒険

2019年の夏、ぼくは車中泊九州一周の旅を敢行した。関西から高速道路を使わずに、どんどんと西へ向かい、福岡県、大分県、宮崎県、鹿児島県、熊本県、佐賀県、長崎県と順に回っていった。

基本は一人旅だったが、鹿児島と熊本だけは関西の友達と合流し一緒に旅した。

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・熊本城の城壁が崩れ去っていた思い出

九州一周の旅の中でも、熊本県は濃厚な旅となった。熊本県は行くところや見るべきところが多すぎて、とても1回では十分に回るのは不可能ではないかと思われた。熊本県では可能な限り見たい場所を回ったが、印象的だったのは熊本城だった。

熊本県は2016年に大きな地震に見舞われたが、熊本県にまったく縁のなかったぼくたちは、熊本県はとっくに復興しているのだろうと思っていた。たしかに商店街などは普通に綺麗な状態で地震を感じさせる部分はなかった。しかし熊本城は違ったのだった。

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熊本城はなんと今でも2016年の地震の被害からの修復中であり、普通に熊本城を見学するのは未だに不可能であるとのことだった。熊本城の城壁を構成する石は崩れ去ったままになっており、3年経った今でも整えられてはいなかった。友人はその様子を見て心を痛めて、まだ復興していない熊本城を見て気の毒に思ったことをツイッターに投稿していた。熊本城の城壁が未だに崩れ去った状態のままになっていることが、彼には衝撃的だったようだ。

 

 

・カンボジアのベンメリア遺跡の思い出

話はまったくガラリと変わって、ぼくは今東南アジア一周の旅をしている。その途中でカンボジアを訪れた。カンボジアといえばアンコールワットだ。アンコールワット観光の拠点シェムリアップにおいて、ぼくは香港人や台湾人と宿で仲良くなり、彼らとシェムリアップ郊外のベンメリア遺跡にツアーで行くことになった。

ベンメリア遺跡とは、昔の崩壊した寺院が放置され苔むした様子が趣深く見応えがあるとされ、ジブリのラピュタのモデルになったとも噂されるが、これも真っ赤な嘘の可能性が非常に高いだろう。

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しかしラピュタのモデルではなくともそれとはまったく関係なく、この遺跡は圧巻の崩壊の様と神聖な空気に触れるために訪れる価値の十分にある観光地である。

 

 

・ベンメリア遺跡がぼくたちに教えてくれること

「どんなに美しく神聖に作り上げてもやがては破壊され崩れ去ってしまう」ということをベンメリア遺跡はぼくたちに教えてくれているような気がした。崩れ去る前にはどれほどに偉大で圧倒的なジャングルの中の寺院だったのだろうか。

崩壊が自然な時の流れによるものだと感じられる点にも趣がある。仏教寺院はしばしば人の手により、特にイスラム勢力により仏像の首が跳ねられたりしているが、そのような人の憎しみによる人為的なものではなく、静かにゆっくり争うことなく、抗うことなく、緩やかに崩壊したであろうことが予想され、ぼくたちの肉体さえこのように自然に崩れ去っていくのだろうと世界の無常を感じてしまう。

この世は創造と、維持と、破壊のトライアングルでできている。いつまでも栄えていることも、崩れ落ちて無になってしまうこともできない。創られたならば破壊され、破壊され消え失せてもやがてはまた世界のどこかで生み出されるのだ。おそれることはない。逃げ出すこともできない。自然な崩壊を見ると心が安らぐのは、僕たちの行き着く先を暗示されているからだろうか。

当たり前のような安らかな破壊の上が苔むすことにより、悠久の時の流れと、その時の川というものがもしもあるならばそれが決して激流でなかったことを示しているようで、ベンメリアの遺跡に降り注ぐ光の中に小さな時のせせらぎを聞いた気がした。

ぼくが人間であるというのは本当か?

 

・熊本城の崩壊とベンメリア遺跡の崩壊

ぼくが不思議に思ったのは、「崩壊」というものに対する人間の見方の大いなる違いである。かたや熊本城の城壁の崩壊に関しては、ぼくたちは当然のように心を痛め嘆いてしまうのに、かたやカンボジアのベンメリアの場合には、わざわざ崩壊を見に街から遠くの寺院を訪れて、ああ崩壊を見られてよかったとその観光に満足したりするのだ。

なぜぼくたちは、熊本城の崩壊のようにベンメリアの崩壊を見て心を痛めることが決してないのか、はたまたベンメリア遺跡の崩壊が見応えがあると賞賛するように、熊本城の崩壊を決して賞賛することはないのか。

熊本県の崩壊は「間違い」であると見なし、早くそれを取り除き復旧させることが急務であると人々は疑わないのに、ベンメリア遺跡の場合にはその崩壊を整えるなんてそのよさを奪ってしまうようなとんでもない発想であり、いつまでも崩壊したままの状態であることを願ってしいる有様だ。人間の心とは、なんと奇異なものだろうか。

 

 

・目の前の景色に間違いなんてありはしない 〜思い込みからの解放〜

ぼくたちはなんの根拠もなく、疑わず、思い込んでいるだけではなかっただろうか。熊本城は崩壊しているべきものではなく、ベンメリア遺跡は崩壊していなければならないのだと。まるで誰かから教えられたかのように信じ込んで、しかし誰から植えつけられた思い込みかもわからずに。

もしも熊本城がこのまま100年は崩壊した城壁を放置していたら、ベンメリア遺跡のようにもはやそれが見どころになる可能性だってあるのだろうか。

思い込むことはぼくたちをいつも苦しめる。「こんな状態は間違っているはずだ」と心を動かされ動揺してしまうと、人生における余計な苦しみや疲れが増えてしまう。「こんな状態でいなければならないんだ」と頑張ってしまうと、どうせ無常のこの世の中で変わっていくはずの運命を肯定できずに、いつまでも嘆き悲しみ現実を受け入れることができなくなってしまう。

大切なのは「そりゃあこのようなこともあるだろう」と目の前の景色を受け入れ、いつだって心をむやみやたらと動かされないことだ。「こうであるべきだ」「こうであってはならない」と頑なに思考を固定させてしまうとその分人生に無駄な苦しみと悲しみが生産されてしまう。その苦しみや悲しみを処理し消去するのに要らぬエネルギーを使い果たしてしまい、やがてはこの世に生まれてきた大切な目的に集中することを忘れ去り、人生は終了してしまう。

熊本城の崩壊した壁を見てぼくが思っていたことは「そりゃあこのようなこともあるだろう」ということだ。ぼくたちの目の前に立ち現れる景色に間違った景色なんてありはしない。ぼくは友人のように、心を惑わすことなく熊本城を立ち去った。

 

 

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