「アラサー」「アラフォー」は日本人に植え付けられた呪いの言葉だ!!!!!
年齢という無意味な呪縛!「アラサー」「アラフォー」という言葉に支配されていいというのは本当か?
・「アラサー」「アラフォー」の意味とは?
・「アラサー」「アラフォー」によって日本人はより窮屈に年齢に縛られる
・未来を思い煩うのは愚かな生き方
・年齢に支配される人間の愚かさと末路について
目次
・「アラサー」「アラフォー」の意味とは?
「アラサー」「アラフォー」という言葉を世間で聞くようになって久しい。誰もが知っているように「アラサー」とはaround 30(30歳前後)の略、「アラフォー」とはaround 40(40歳前後)の略だ。
具体的にはアラサーは25歳から34歳、アラフォーは35歳から44歳までを指すことが一般的だと言われている。アラサー、アラフォーという言葉は当然日本人が生み出した言葉であり、年齢をやたらと気にして意識する性質を持つ日本人らしい発明品だということができるだろう。日本人はいつの世も、年齢という単なる数字に心を支配されながら生きていく運命にあるのだろうか。
・「アラサー」「アラフォー」によって日本人はより窮屈に年齢に縛られる
ぼくがものすごく気になるのは「アラサー」「アラフォー」という言葉の世間への浸透によって、元から年齢に心を支配されがちだった日本人が、より一層窮屈な形で年齢に縛られるようになったのではないかということだ。
たとえば「アラサー」という言葉がまだなかった時代に、25歳〜29歳の人が30という年齢を意識しただろうか。もうすぐ30歳になる年齢ではあるもののまだまだ20代なので、自分自身を「20」という概念に属するものとしか認識しなかったはずだ。
当然20代なのだから「20」という数字に支配されながら生きることは正しい。しかし「アラサー」という言葉が誕生して以来、25歳〜29歳の人々は20代に属するというよりもむしろ「アラサー」に属するのだという考えを社会的に強要され、今しかない20代の貴重な期間になぜか「30」という数字の概念を無理矢理に押し付けられているのではないだろうか。
30歳〜34歳の人は30代なのだから「アラサー」という言葉があろうがなかろうが「30」という数字に支配されていたので特に問題はないが、なぜまだ20代の25歳〜29歳の人々がなってもいない「30」という数字に巻き込まれなければならないのか納得がいかない。20代ならば「20」という数字にのみ意識を支配され今しかない20代を雑念なく楽しむべきではないだろうか。「アラサー」とははまだ20代の人々を意味不明に「30」という観念へ引きずり込み、まだ30にもなっていないのに「自分達は30に所属しているのだ」と全く不要な先走りの年老いた感覚を植え付ける呪いの言葉ではないだろうか。
・未来を思い煩うのは愚かな生き方
全く同じことが「アラフォー」という言葉にも言えるだろう。34〜39歳の人々が、無意味に先走って「40」という未来の観念にとらわれる必要などないのだ。それよりも自分は30代として「30」に所属していることを思い出し、30代という今この瞬間に意識を集中させ思い存分生き抜くべきではないだろうか。
未来を思い煩いながら生きている人間は碌な生き方ができない。どうせどうなるのかわかるはずもない未来の不安や憂いに支配されるのは、無意味で頭の悪い行為ではないだろうか。同様にどうせ変えられるはずもない過去をふり返ったり悔やみながら生きるというのも愚かな生き方だ。重要なのは過去をふり返らず、未来を思い煩わず、今というこの一瞬一瞬を燃え盛るように真剣に生き抜くことではないだろうか。
・年齢に支配される人間の浅はかさと末路について
そもそも日本人は年齢に意識を支配されすぎではないだろうか。日本で生活していたり労働したりしているとやたらと年齢を聞いてくる人間がどこにでもいるが本当に気持ちが悪い。年齢を聞き出して彼らは何がしたいのだろうか。年齢という数字を誰かと比較して何かしらの優越感に浸りたいのだろうか。実年齢と肉体を比べて思ったより若いとか老けているとか噂したいのだろうか。年齢相応の生き方をしているのか他人の人生を勝手に裁きたいのだろうか。いずれにしても悪趣味以外の何物でもないと断言されるだろう。
年齢というのは単なる数字だ。そしてそれはいつも肉体の新しさや古さについて言及する。人間は肉体だけで構成されていると浅はかに彼らは思い込んでいるのだろうか。肉体の年月などを超越したその人の心や精神や魂の深さがあるということに、彼らは永遠に気づくことがないだろう。そしてそれらの方が肉体などよりもはるかに重要な要素であることも、彼らは理解できずに死んでいくだろう。
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