ぼくが子供の頃は、「二礼二拍手一礼」なんてしていなかった!!!!!
「二礼二拍手一礼」はいつから?伝統的というのは嘘?神社では「二礼二拍手一礼」しなければならないというのは本当か?
・日本の神社では「二礼二拍手一礼」しなければならないというのは本当か?
・ぼくは子供の頃、神社ではパンパンと二拍手すると教わった
・「二礼二拍手一礼」は伝統的ではない新しいスタイル
・「二礼二拍手一礼」への違和感と、自由な参拝作法の提案
目次
・日本の神社では「二礼二拍手一礼」しなければならないというのは本当か?
神社とは、日本にしかない日本の神様を祀る日本独特の宗教施設である。日本人の中で、神社に行ったことがないという人はほぼいないのではないだろうか。普段の何気ない日常生活においてもまた人生で重要な場面においても、日本人は神社を参拝し神様にお祈りをする。日本人の生活と神社という宗教施設は密接に結びついており、切っても切れない関係にあると言っても過言ではないだろう。
ぼくは去年「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅を実行し、日本という祖国についての理解を深めた。日本一周の旅では自然とたくさんの神社へと立ち寄り、その土地それぞれの神様にお祈りを捧げてきた。神社には丁寧にも参拝の方法が案内されている場所もあり、そこには「二礼二拍手一礼」しましょうと書かれている。特に難しい作法ではなく、2回お辞儀して、2回パンパンと手を打ち鳴らし、その後で1回お辞儀しようという意味だ。
日本各地のどの神社においても「二礼二拍手一礼」と書かれている。神社がそう言うのだからそれに間違いはないはずだと簡単に「二礼二拍手一礼」に従ってしまいそうになるが、本当に「二礼二拍手一礼」が正式な神様への参拝の仕方なのだろうかと、ぼくは常々疑問に思っていた。というのもぼくが子供の頃は、「二礼二拍手一礼」なんて言われていなかったし教わりもしなかったからだ。
・ぼくは子供の頃、神社ではパンパンと二拍手すると教わった
ぼくが子供の頃は神様の前では「パンパンしましょう」と親から教えられた。つまり二拍手しようという意味だ。その二拍手以外の作法なんて教わって来なかった。その前の二礼も、その後の一礼も全く知らされなかったし、それをすべきだと指摘されたこともなかった。一体いつから作法が変わり「二礼二拍手一礼」になってしまったのだろうか。それともぼくの地元だけに、二拍手だけという独自の参拝方法が残っていただけだろうか。
しかしインターネット上で調べてみると、ぼくのような意見が日本各地から集まっていたので安心した。昔はパンパンと二拍手するだけでよかったのに、いつから「二礼二拍手一礼」に変わったのだと違和感を覚える人々がたくさんいたのだ。一体いつから神社の参拝方法は、日本全国で「二礼二拍手一礼」に固定されたのだろうか。
・「二礼二拍手一礼」は伝統的ではない新しいスタイル
正確な時代の特定は困難だが、一説によると昭和時代には民衆の間には広まっていなかった「二礼二拍手一礼」は、平成時代にかけて徐々に日本全国に浸透していったのではないかという意見が散見された。なるほどなんとなくぼくの感覚でもそんな感じはする。昭和のことはわからないが、少なくとも平成の前半ではパンパンの二拍手だけでよかったことは自分の人生を通して知っているからだ。
最近ではぼくに二拍手だけを教えた母親も、そこら中の神社に書き記されている作法であるところの「二礼二拍手一礼」を覚え、このように参拝するのが正式だからこうすべきだと言い出したのでぼくは唖然としてしまった。じゃあ親から子へと受け継がれた、今までのぼくの人生における参拝作法は何だったのだろうか。そもそもパンパンの二拍手だけでこれまで神社を参拝してきても、人生に何の災いも起こることなく幸せに楽しく暮らせてきたのだから、パンパンの二拍手だけで神様はきちんと守ってくれているのではないだだろうか。
パンパンの二拍手だけが間違いだったとして、その間違った参拝方法をしてきたから人生に数々の困難や災が降り注ぎ、どうにもこうにも生きてけない助けてくれと切に願うほどだったならば、参拝作法を正式だと言われている「二礼二拍手一礼」に修正するのもありかもしれないが、パンパンの二拍手だけでちゃんと神様に見守られ十分幸せに暮らしているのだから今更作法を変えるまでもないのではないだろうか。それも本当に伝統的で正式な参拝方法だというのなら従いたくもなるが、平成に入ってから徐々に浸透していったという新しい参拝の作法に、一体どれほどのありがたさがあるというのだろうか。
・「二礼二拍手一礼」への違和感と、自由な参拝作法の提案
そもそも日本の神様に対する正式な参拝方法なんて、本当にあるのだろうか。ぼくの感性で直感される日本の神様というものは、もっと自由で寛容な存在だ。どんな参拝方法をとったとしても、どんな作法であったとしても、祈りの心を込めることを忘れなけば、日本の神様はすべて受け止めてくれるのではないだろうか。
ぼくが「二礼二拍手一礼」を怪しいと思う点は、あまりにもペコペコとお辞儀しすぎではないだろか。これではまるで部下が上司にペコペコしていたり、目下が目上にペコペコしていたりしておとなしく従っている、日本の儒教に支配された人間社会と同じ構図ではないか。日本人は年上や目上や上司にばかりではなく、神聖な祈りの場においても神様という目上にペコペコする宿命を背負っているというのだろうか。年上や目上や上司にペコペコしている場合だって、儒教のしきたりに従ってもしくは権力にねじ伏せられて仕方なく、偽りの心を伴いペコペコしている場合がほとんどだろう。せめて神様の前でくらいは、誠の心で向き合うべきではないだろうか。
神様というのは「かみ(上)さま」と名付けられるくらいだから、古来より上の方にいる目上の存在だと信じられてきたのは確かだろう。しかしぼくの直感では、日本の神様は上の方で偉そうにふんぞり返っているイメージはしない。もっと平等で、身近で、親近感のある尊い存在が、日本の神様なのではないだろうか。上の方から人間たちを見下ろしているわけではなく、すべてを包み込み、すべてをゆるし、森羅万象に宿りながらおおらかに見守っていてくれている日本の神様。それは参拝の作法をきちんとしろと細かく命令したり、参拝の方法を間違ったから罰を与えるなどといったみみっちいイメージからは程遠い。
日本の神々は根本まで追求すれば、大自然の精霊たちではないだろうか。それは古事記や日本書紀というような新しい天皇的物語が後付けされるずっと前から、原始的な日本人の心に宿り、現在に至るまで長きに渡り守られ続けてきた尊い信仰心だ。大自然の精霊が愚かしい人間社会のように、目上だとか目下だとか階級をつけるだろうか。礼儀作法をきちんと守らなければ怒るというような偏狭な心を持ち合わせているだろうか。日本人は日本の美しい大自然に囲まれて、大自然と共にこの時代まで生き抜いてきた。大自然の精霊はぼくたちを支配するのではなく、ぼくたちを優しく包み込み、慈しみ、共に生きるという平等な視点から、日本人と共に美しい日本の文化を育んできたのだ。
ぼくが確信できるのは、日本人は自由な作法で神社を参拝していいということだ。そして「二礼二拍手一礼」を正式だとか伝統的だとか信じすぎず、その作法を行う自分は優れた存在だと勘違いし、「二礼二拍手一礼」しない人を見下さないことである。それこそが日本の神々の前におけるふさわしい精神ではないだろうか。