ボランティアと労働の違いとは?労働よりもボランティアの方が価値がある素晴らしい行為だというのは本当か?
・労働しない人よりも労働する人の方が素晴らしいという常識
・労働するよりも立派な人はボランティアをする人だ
・見返りを求める労働、見返りを求めないボランティア
・どうせ他人の役に立つという結果が同じなら、お金をもらった方が自分のためにもなる
・ボランティアという正しさを利用して搾取される可能性はないのか
目次
・労働しない人よりも労働する人の方が素晴らしいという常識
労働している人と労働していない人を比べると、人間社会では確実に労働している人の方が評価される傾向にある。逆に大人になって労働が可能な状態になっているにも関わらず労働していない人を見つけると、人間たちは見下し、蔑み、労働をすべきだと自らの意見を自信満々に主張するだろう。労働しないよりも労働する方が人間としてふさわしい生き方だという社会的常識が、彼らの自信の増幅を助けるに違いない。
ぼくも医師としての労働を中止して世界一周の旅に出た時には、労働しない生き方に対する否定のシャワーを常識的な世界から浴びせられるのを感じた。しかしぼくは自らの直感に従い、自分自身の願いのために生きることが正しいと心から信じることができていたので、社会的常識というものに屈服することがなかった。むしろ社会的常識に守られながら安全な場所で傷つくこともなく、自らの心の声を聞く能力すら喪失して巨大な流れに操られるがままに生きていく思考停止の生き方の方が避けるべきだという感性を持っていたし、そのような小賢しさに染まった生き様は恥ずべきものだと感じていた。
労働とは基本的に自分の人生の大切な時間を切り売りして、他人の役に立つという行為だ。労働を崇拝する人間たちがこの世に多いのは、自分のために生きることよりも他人のために生きること、他人の役に立つことの方が素晴らしいという思い込みが根底にあるからかもしれない。しかしぼくは労働のような他人のためになる行為の方が、自分のために生きる生き様よりも尊く素晴らしいものだとは全く思えなかった。確かに他人の役に立つことは人生において重要かもしれないが、世の中がそう思い込めとやたらと押し付けてくるように、自分の人生の目的が他人の役に立つことだとはどうしても思えない。
他人のために生きるという生き方は、自分のために徹底的に生き抜いて自分自身の魂を救った後のことではないだろうか。自分のために全く生きてもおらず、自分のために自分の人生の大切な時間を使うという経験もないままで、とにかく思考停止して他人のために生きるべきだという価値観を押し付けられ、ただなんとなくまず労働を開始することで、果たして本当に人生を違和感なく生きられるのだろうか。他人のために生きるという行為は、まず自分のために生き抜いてからもたらされる人間の宿命ではないだろうか。自分のために生き抜くという土台もないままで、真に他人のために生きることなんて不可能ではないだろうか。自分のために自分の人生の大切な時間を惜しげもなく費やすことによって初めて、他人のために生きるという本当の意味や価値を見出せるのではないだろうか。
そのような思考回路から、ぼくはやたらと人間社会が指し示すように、自分のために生きる前から労働を開始するのは反対だ。しかしながら自分のために生きるためにはお金が必要な場合も多いので、まずは労働を開始してお金を貯めることを優先せざるを得ないこともあるだろう。ぼくも実際に、旅をしたいという情熱の指し示すままに自分のために世界一周の旅に出かけようとしても、世界一周の旅なんてお金がなければ実現不可能なのでまずは医師としての労働を開始した次第だ。そして旅のための資金が集まれば、計画通りに世界一周の旅路へと飛翔し、自らのために生き抜き、他人の役に立つよりも前に自らの魂を救い出そうと努力している。そのようなぼくの生き方に反して、人間社会や社会的常識は今でもなお、労働しない人よりも労働する人間を素晴らしいと称賛する傾向にある。
・労働するよりも立派な人はボランティアをする人だ
しかしぼくが人間としてこれまで生きてきて、労働するよりも遥かに褒め称えられている人々が存在しているのに気がついた。世の中では労働しない人よりも労働する人の方が偉いと見なされているが、労働する人よりも遥かに立派だと称賛されている種類の人々がいるのだ。それはボランティアを行う人々である。
厳密な定義は違うのかもしれないが、ぼくたちが一般的に思い描くボランティアとはお金をもらわずに無償で人々の役に立つ行為のことだ。労働は人の役に立ちお金をもらう行為であるのに対し、ボランティアは人の役に立つのにお金をもらわないという点が、労働とボランティアの最も大きな違いだろう。逆に言えば他人の役に立つという点では全く同じ行為のようにも見える。ボランティアは小学生の授業などでもとても素晴らしい行為だと教え込まれ、ぼくたちはボランティアをするべきだ、ボランティアをすれば他人からの評価がものすごく上がるという空気まで感じ取ることができた。それでは一体ボランティアの何がそんなにすごいのだろうか。
・見返りを求める労働、見返りを求めないボランティア
ボランティアが世の中でやたらと称賛される最も大きな理由は、やはり「お金をもらわないから」ではないだろうか。他人の役に立つから素晴らしいんだという意見もあるかもしれないが、他人の役に立つという観点からすればボランティアも労働も同じことである。しかし労働よりもボランティアの方が遥かに世間で評価され称賛されている気配を感じるのは、やはり役に立った対価として何かをもらっているかもらわないかという違いが大きいような気がしてならない。
「愛」とは見返りを求めないことだという。愛したお返しに愛してほしいと願ってしまうのでは、それは愛とは呼べない。愛とは与えっぱなし、ただひたすらに与える行為であり、たとえ何ひとつ返されることがなくても与え続けることこそ愛なのだ。そして愛を抱き続けることだけが人間が真実の幸福を手に入れるための唯一の道だとロシア人作家トルストイは著書「人生論」の中で説いている。日本人には馴染みのないこの「愛」の概念は、やはり西洋的、キリスト教的な側面が強いのかもしれない。お金をもらわない、見返りを求めないのに他人の役に立つというボランティアの行為は、まさにこの愛の概念に近いのではないだろうか。ボランティアに相当する日本語が存在せず、「volunteer」という西洋語を「ボランティア」という言葉でそのまま導入していることからも、ボランティアは西洋的思想の観念が強いことが伺える。
西洋的、キリスト教的に最も重要な愛の概念を導入しているボランティアであるからこそ、明治時代より西洋に憧れ続け西洋文明を導入し続けてきた日本が、その憧れに従うままにボランティアを崇拝してしまうことも無理のないことなのかもしれない。
・どうせ他人の役に立つという結果が同じなら、お金をもらった方が自分のためにもなる
しかしぼくが思うのは、他人の役に立った代わりにお金をもらうことがそんなにも悪いことなのかということだ。他人の役に立ってお金をもらわない行為(ボランティア)と他人の役に立ってお金をもらう行為(労働)を比べれば、前者の方が高尚で高評価となり、後者の方は見返りを求めている分前者よりはレベルが低いと見なされていいというのは本当だろうか。
ぼくが思うに、同じ「他人の役に立つ」という行為をするのなら、たとえそれがお金をもらっていようがお金をもらっていなかろうがそんなに変わりはないのではないかということだ。だってどちらにしろ他人の役に立つ行為をしっかりとしてくれているのだから、その結果としてその人がお金をもらっていようがいまいが知ったことではないのではないし、そんなこと特に重要ではないのではないだろうか。むしろボランティアとして責任感もやる気もあまりないままに行為を行うくらいなら、これを頑張ればきちんとお金をもらえるのだというやる気と、お金をもらっているのだからしっかりやらなければならないという責任感を背負う労働の方がむしろまともな可能性だって否定できない。他人の役に立つ同じAという行為をしてお金をもらえる仕事とお金をもらえない仕事の2つがあったなら、同じAという行為によって他人の役に立つという結果はどうせ同じなのだから、お金をもらえる仕事の方を選ぶのはとても自然なことだし賢い選択ではないだろうか。なぜそこで敢えて自分の生活を支えたり願いを叶えるのに役立つ後者を選ぶ必要があるのか甚だ疑問である。
そもそも他人の役に立ってお金をもらうという行為が、他人の役に立ってお金をもらわないことよりも低俗だというのは本当だろうか。確かに見返りを求めない愛が重要だとされる西洋的、キリスト教的観念からいえば、お金という見返りを求めるという労働はレベルが低いことかもしれない。しかし本当に重要なのは他人の役に立つという行為そのものではないだろうか。労働でも、ボランティアでも、他人の役に立っているということでは変わりはないのだから、どちらであろうと等しく立派な行為ではないだろうか。むしろどうせ同じ「他人の役に立つ」という行為をやり遂げるのだとしたら、何ももらえないよりもお金をもらえる労働の方が、自分の役にも立つし他人の役にも立つから優れていると言えるのではないだろうか。
他人の役に立って何ももらわないというボランティアは、他人の役に立つということを重視しすぎて、自分を大切にするということを忘れている。他人の役に立つために費やされた時間は、自分にとって限られた貴重な尊い人生の時間の大切な一部だ。そのような宝物を敢えて他人のために差し出したのだから、自らの人生を豊かにするためのお金という道具を見返りとしてもらい受けても罰は当たるまい。見返りを何ももらわない善行を行うことで、自らの心がまるで何かをもらったかのように満たされるというその感覚が真実の幸福へと繋がっていくという側面は確かにあるのかもしれないが、幸福感だけで生きていけるほど人生は甘くない。人間を豊かに過ごしたり、自らの願いを叶えるためにはどうしてもお金が必要なのだ。どうせ同じ「他人の役に立つ」という行為を行うのなら、見返りに何かをもらった方が、何ももらわないよりも賢明な選択であるに違いない。
労働とは他人の役に立つし、見返りとしてお金をもらうことで結果的に自分のためにもなるのだから、他人のために尽くすことと自分を大切にすることを両立させることができるバランスのいい行為なのかもしれない。労働しないということは自分のためになりすぎているし、ボランティアは他人のためになりすぎている、そのちょうど中間に位置する適度な行為だからこそ、労働する人間たちがこの世界には非常に多いのかもしれない。労働しないという人間も世の中には少ないし、ボランティアだけやっているという人間もこの世にはほとんどいないだろう。
・ボランティアという正しさを利用して搾取される可能性はないのか
重要なことはボランティアは素晴らしいという社会的常識を間に受けて、自分の人生の大切な時間を知らず知らずのうちに搾取されないないか注意しなければならないということだ。
記憶に新しいのは東京オリンピックの際に医師のボランティアが募集されたことだ。医師というのは大抵の人が忙しい。その医師の貴重な時間を使って、命にも関わる責任重大な医療行為を行うというのに、まさか”無料”のボランティアなど募集してもいいのだろうか。民衆から自動的にお金を搾取できる税金というシステムがあるのに、なぜその税金使ってを他人の役に立つ行為を行う医師に報酬を支払ってやらないのだろうか。これは「ボランティア」という正しさを盾にした行政に都合のいい節約術なのではないだろうか。
ボランティアは素晴らしいという思考停止の社会的常識や正しさに惑わされると、本来どう考えても支払われるべき報酬が支払われないという違和感を見逃すだけではなく、権力者や雇い主による搾取のための道具として「ボランティア」という言葉だけが都合よく使用され続けてしまうのではないだろうか。「ボランティア」に内在する西洋的、キリスト教的な愛の性質を利用して、その愛の正しさに小賢しく匿われて、傷つくこともダメージを受けることもなく、自分はさも正しいというような顔つきをして民衆から大切な人生の時間やお金を搾取している場合があるかと思うと、なんともやり切れない思いと怒りが込み上げてくる。
あまりに優しすぎると、あまりに譲りすぎると、あまりに素直すぎると、ぼくたちはいくらでも搾取されてしまうような地獄のような世界に生きている。ぼくたちは常日頃からしっかりと思考し、常識や正しさを疑い、自分から不条理に奪い取っていく者たちの手から自分自身の宝物を、自分のためにしっかりと守ってやるべきだ。学び、思考し、賢くなるのは、必死にこの世で生きている自分自身が少しでも快適に生きていけるように、あらゆる怪しさや偽りを取り除いてやるためだ。