他人の不幸が嬉しい心理的理由とは?他人の不幸は蜜の味だというのは本当か?

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あなたは他人の幸福を素直に喜べますか?

他人の不幸が嬉しい心理的理由とは?他人の不幸は蜜の味だというのは本当か?

・他人の不幸は蜜の味だというのは本当か?
・浜崎あゆみ「End of the world」
・中島みゆき「幸福論」
・幸福を喜ぶのも、不幸を喜ぶのも人の心
・相対的な世界に生きる心は揺れ動く幸福感に支配される
・絶対的な幸福感が人間にもたらすもの
・ぼくたちはいつの日かあらゆる恐れを脱ぎ捨て裸体へ帰ろう

・他人の不幸は蜜の味だというのは本当か?

「他人の不幸は蜜の味」という諺というか決まり文句が日本語には存在する。説明するまでもなく理解されるだろうが「他人の不幸は蜜の味」とは、他人が不幸になっている様子を見るとなんとなく安心したような喜ばしいような気持ちになれるという意味だ。

なんといういやらしくて下品な表現だろうか!ぼくはこの「他人の不幸は蜜の味」という言葉が大嫌いだし、こんなのことを実際に目の前で言うような種類の人間も大嫌いだ。これはもう理屈ではなく、目の前にゴキブリがいたら気持ち悪いと感じたりとか、ムカデがいたら思わず逃げたくなるような種類の直感的な嫌悪感である。

しかし嫌いだからと言って目を背けずに、よくよく考えれてみれば「他人の不幸は蜜の味」と感じてしまうのは人間として当然の心模様であるとも感じられる。それに現代に至るまで「他人の不幸は蜜の味」という決まり文句が人間社会の中で受け継がれてきて残っているということは、この「他人の不幸は蜜の味」とはあながち間違いでもなく、人間誰もが心の底で感じる普遍的な心理だということを意味するのかもしれない。

 

 

・浜崎あゆみ「End of the world」

”自分よりも不幸な人を
見ては少し慰められ
自分よりも幸せな人
見つけたなら急に焦ってる”

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・中島みゆき「幸福論」

”人の笑顔が悔しい 人の笑顔が悔しい
そんな言葉が心を
抜け出して 抜け出して
走り出しそうだ

笑顔になるなら見えないところへ行けよ
妬ましくてあなたを憎みかけるから
プラスマイナス 他人の悲しみをそっと
喜んでいないか”

 

・幸福を喜ぶのも、不幸を喜ぶのも人の心

ぼくたちには他人が幸せになって喜んでいる姿を見て、自分のことのように祝福し喜ぶことのできる心を持っている。しかし同時に自分とは違う他人が幸福になることを見て、悔しく思ったり妬ましく思ったり焦ったりするような心を抱いてしまうこともある。

ぼくたちには他人の悲しみをまるで自分のことのように心から悲しみ、一緒になって泣いて共感するような心を持ち合わせている。しかし同時に他人が不幸になって悲しんでいる様子を見て、不幸になるのが自分でなくてよかったと安心してしまう心さえ持ち合わせてしまうこともあるだろう。

同じ自分自身の心なのに、全く真逆の反応を示してしまうことが多々あるのはどうしてだろう。どうして時には他人の幸福を心から喜ぶことができるのに、時には他人の不幸の方を喜んでしまうことがあるのだろうか。

 

・相対的な世界に生きる心は揺れ動く幸福感に支配される

それは前者が絶対的な世界に生きる心を、後者が相対的な比較の世界に生きる心を表しているからではないだろうか。

ぼくたちは油断してしまうと、常に他人と自分を比較してしまうような虚しき浮世を生きている。あの人の方がお金持ちだとか、あの人の方が背が高いとか、あの人の方がイケメンだとか、あの人の方がお洒落だとか、あの人の方が健康だとか、いつも他人と自分を比較しては、他人を見上げて羨ましがったり他人を見下して安心したりして生活している。常に他人と比較してしまう相対的な魂は迷妄の中にあり、いつも比較という無為な作業に追われて見上げることにも見下すことにも疲弊して、やがて本来自らの使命に使うべきエネルギーをほとんど消費してしまい、自分が何のために生まれてきたのか追求することすら忘れて、迷いに満たされた状態で一生を終えることだろう。

相対的な比較の世界で自分が幸福に到達するためには方法がふたつある。ひとつは自分が努力して高い位置へと登りつめること、もうひとつは他の人間たちが自分よりも下へと転落してくれることだ。どちらにしても自分の位置が相対的に高くなることに変わりはなく、どちらの方が楽かは火を見るよりも明らかである。相対的な心に生きている時、人は他人が自分とは関係のないところで勝手に転落してくれることで、自分は思いがけず自動的に相対的な幸福感を手に入れることができる。この感覚こそが「他人の不幸は蜜の味」の正体であり、自分が何の努力しないで棚からぼたもちのように相対的な幸福感を得られるのだから気分がよくなってしまうのも仕方のないことかもしれない。

 

 

・絶対的な幸福感が人間にもたらすもの

それに比べて絶対的な心に生きている人は、常に絶対的な幸福感に満たされている。絶対的な幸福感とは相対的な幸福感とは違って、常に誰かと比較しながら自分の中で上がったり下がったりして忙しく波打ち心を惑わせる種類の幸福感ではなくて、常に不動で一定であり自分自身を真に安定させ満たしてくれる幸福感である。

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自分を誰かと比較することもなく相対的な次元に置くことがないから、簡単に不幸へと翻ったり妬みへと転じたりする危うい幸福感に惑わされることがない。大切なのは自分自身を相対的な人間ではなく、絶対的な人間だと悟ることだ。ぼくたちは常に人間社会から競争し、相対化し、比較するように仕向けられているが、それはぼくたち人間の競争心をあおって相対化し、必死になって勝とうと努力するようにそそのかすことで、集団としてより多くの利益を貪ろうとしているだけに他ならない。それゆえにぼくたちは油断してボケーっと人間世界を生きていると、自分を相対的な存在だと思い込みやすいが、ぼくたちは本来絶対的な存在のはずだ。

他と比較するような次元にいない絶対的な存在なのだから、他人が自分より上だろうと下だろうと関係ない。そんな比較にかまけて必死に他人ばかりを気にして観察している時間があるのなら絶対的な自分自身を見つめて、自分がなぜこの世に生まれ生きていくのかを考えるだろう。他人と比較することによる不確かで危うい相対的な幸福に心が支配されることもなく、浮世の言う幸福からも不幸からも遠く離れた岸辺にある、自分だけの絶対的な幸福を胸に誇り高く抱きながら、それを羅針盤として迷うことなく一生という名の橋を渡っていくことだろう。

自らが絶対的な幸福感のみに満たされているから、自分の幸福感を他人との比較や相対性に依存させない。相対的で不確かな幸福感を抱いている場合は、他人の幸福が自らの幸福を消し去るかもしれないと心は焦るだろうが、絶対的で揺るぎない幸福感に包まれた魂は、他人の幸福くらいじゃ幸福感をビクとも動かされないので、余裕を持って他人の幸福を自らの幸福だと祝福することができるだろう。私の幸福はあなたの幸福であり、あなたの幸福は私の幸福であり、私はあなたであり、あなたは私であり、もしかしたら私とあなたは違いのないもの、本来一体のものであると悟る場合もあるかもしれない。

 

 

・ぼくたちはいつの日かあらゆる恐れを脱ぎ捨て裸体へ帰ろう

「他人の不幸は蜜の味」という言葉に心が溺れてしまうということは、自分の心がまだ相対的な迷妄の世界で留まっているという証なのだ。

しかし人間が人間として自我を持ち合わせながら生きる以上、完全に相対性を脱ぎ捨てて絶対的な存在になることは難しい。けれどぼくたちは本来、絶対的な存在としてこの世に生まれてきたはずだ。絶対的な赤子、絶対的な少年時代を通り過ぎて、徐々に徐々に人間社会によって相対的な迷妄と比較の地獄が注ぎ込まれて次第に相対的な存在へと切り替わっていったはずだ。だからぼくたちは生まれたままの自分自身の本来の姿に戻ればいいだけなのだ。絶対的な存在、絶対的な自分、絶対的な幸福、絶対的な羅針盤、それを”手に入れる”のではなく”取り戻す”ことを意識するように生きていけばいいだけの話だ。

ぼくたちの存在に生きるたびに植え付けられた恐れや穢れが、自らの信念と意識によりひとつひとつはがされ、やがてぼくたちの存在は裸体となるだろう。その裸体はまさに、この世に生まれてきた時のぼくたちの姿そのものかもしれない。

 

 

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