「国家」っていうと素晴らしいもののように聞こえるけれど…。
国家が偉大で素晴らしくありがたいものだというのは本当か?
・ドイツの鉄道が国営になってから時間にルーズになった話
・国家が絡むと時代に合わせて進化する能力が低下する
・国家という偉大なはずのものが民衆よりも愚鈍ということがあり得るのか
・あらゆる進化は”トップダウン”ではなく”ボトムアップ”によって生じる 〜進化は万能である〜
目次
・ドイツの鉄道が国営になってから時間にルーズになった話
ぼくは大学2年生の夏休みにドイツに1ヶ月間短期留学して、ドイツの大学でドイツ語を学んだ。ホームステイして通学には電車を使ったが、日本の電車とは全然システムが違うので驚いた。切符の改札機がなくて自由にホームに入れるし、自転車とかペットとかも一緒に電車に乗せられるし、切符は電車内の機械に通さなければ切符を持っていても高額の罰金を支払わされるし(ぼくの友達がうっかり忘れて日本人で勝手がわからないと言っても容赦なく罰金を取られていた!)、ヨーロッパの電車は新鮮なことだらけだった。
ぼくが気になったのは、ドイツの電車はよく遅れるし時間通りに来ないことだった。日本だったら3分遅れても謝罪のアナウンスが流れたりするが、ドイツではそんなことありえないだろう。ドイツって真面目てきっちりしているイメージがあるが、少なくとも電車の時間に関しては全然そんな感じではなかった。現地の先生は「ドイツの鉄道は民営から国営に変わって時間にルーズになった」と言われて、ぼくの中では違和感を覚えた。
ぼくの中では「国家」って、ものすごくきっちりしているもの、しっかりしているもの、国の偉い人が集まってできている一番優れたものというイメージがあったので、民営という普通の個人営業なんかよりも国家が運営した方が、時間にきっちりして真面目に運営されるのではないかという思い込みがあったのだ。しかし事実はそれとは全くの真逆であったことが印象深かった。
・国家が絡むと時代に合わせて進化する能力が低下する
「国家」がそんなに偉くないんじゃないかという思いは、日本で暮らしていても日に日に増していった。「国家」的なものというのは、進化がものすごく遅くて時代に付いて行っていないイメージが日常を生きていても散見されたからだ。
たとえばJALといえばかつては国営だったようだが、JALのiPhoneとかiPadのアプリって本当にひどいし使いにくいと思う。なんかセンスのないおじさんたちがよくわからないけれど頑張って作ったような、古臭くてスマートではない感じがするアプリなのだ。スマホのアプリやホームページがセンスよく合理的に作られているかというのは、その会社が時代の流れに沿っているかという重要な指標になると思う。JALはそれが壊滅的によくないイメージがぼくの中にはある。
同様に日本の新幹線に乗ろうとしても、今はどうか知らないけれどかつてはスマホで簡単に予約ができずに驚いた。新幹線はJRのものでこれもかつては国家のものだったはずだ。先進国日本の新幹線だから当時の外国と同じようにサクサク簡単に鉄道をオンライン予約できるのだろうと思い込んでいたから、それが全くできないことに驚きを隠せなかった。
国家というものが絡んでくると、時代に即して進化したり時流に適応する能力が著しく低下するのではないかとぼくは感じるようになっていった。しかし確証はなかった。そこでJRの会社で働いてる友人にこのような意見を持っているのだけれどどうだろうかと尋ねてみたところ「耳が痛い。まさにその通りだと思う」という返答をもらった。
・国家という偉大なはずのものが民衆よりも愚鈍ということがあり得るのか
しかし今の段階では人間は国というものを最重要な一単位として考えてみるわけだし、国中から優秀な人々が集結して国家や政府が運営されていそうなイメージなので、国家が絡むとその組織が時代に取り残されるようになるとか、のろまになるとか愚鈍になるとか、そういうのってすごく不思議な感じがする。
やはり国家は偉大なもので、しっかりしたもので、きっちりしているとみんなが期待するからこそ、色々な場合においてちょっとしたことでも失望され責められる傾向にあるのだろう。新型コロナの場合でも、死亡率が低く抑えられているのに国家が責められないのを見ない日はない。きっとみんなものすごく国家というものを偉大であるべきだと感じているからこそ、もっともっとしっかりすべきだと厳しく責めるのだろう。確かに税金というシステムでお金を大量に奪い取っているわけだからしっかりしてもらわないと困るというのはある。
しかし偉大であるはずの国家というものが個人的なものや民間的なものよりも愚鈍であるということがあるのだろうか。そんなことをぼんやり感じている時に、とてもいい本に出会った。
・あらゆる進化は”トップダウン”ではなく”ボトムアップ”によって生じる 〜進化は万能である〜
その本は「進化は万能である」というイギリス人のマッド・リドレーさんによるものだ。この本は上記のような、誰に問うても答えが返ってきそうにもないぼくの疑問にまさに的確に答えを用意してくれている、ぼくのために用意されていたような本だった!
この本には様々な形態での人類の進化の過程が記されている。宇宙の進化、道徳の進化、生物の進化、遺伝子の進化、文化の進化、経済の進化、テクノロジーの進化、心の進化、人格の進化、教育の進化、人口の進化、リーダーシップの進化、政治の進化、宗教の進化、通貨の進化、インターネットの進化で、ページ数は450ページにも渡るが、面白すぎてすぐに読んでしまった。
様々な進化について語られているが、つまるところ彼の言いたいことはただひとつである。それは人類の進化が、偉大な人物や偉大な国家があってそれが上から支配し指示することによって下々の人々を進化へと導いたのだという”トップダウン”方式では決してなくて、遺伝子だろうと文化だろうとテクノロジーだろうと教育だろうと国家だろうと、すべての進化は”ボトムアップ”すなわち名もなき民衆の間から常に人類の進化は引き起こされているということである。
人間は偉大なものを崇拝しやすい。世界の創造には偉大なひとりの神がいたのだと多くの人が信じているし、エジソンという偉人がいなければ電球は発明されなかったのだと思い込むし、国家に立派なリーダーがいるからこそ経済がうまくいっているのだと信じ込みやすい。しかしよくよく歴史や現象を観察していると人間の進化はそのような”トップダウン”方式ではまったくなく、逆に”ボトムアップ”として、名もなき人々が時代の流れの中で自然発生的に流れを変えていこうと蠢いているからこそ、あらゆる進化は生じ世界は豊かにそして平和になっているというのだ。
そしてピラミッドの上から指図することで機能しているような”トップダウン”的な集団は、下から自発的に発生し押し上げるようにして集団を進化へと導いていく”ボトムアップ”の集団と比較して、愚鈍となり進化の過程で淘汰され時代に取り残されていく。国家的なものが絡んでいる集団の進化が異様に遅く愚鈍であり、民衆による民営の方が時代の流れを読んで合理的にスマートに進化しているというような上記で感じたぼくの日常での感覚も、このような事実が理由となっていたのだろう。
ぼくたちは国家を偉大なものだと認識し、「お国」などといってありがたがる傾向にあるが、それほどでもなくむしろ民衆よりも愚鈍となることも十分にあるのだと頭の片隅に覚えておくことことが重要なのかもしれない。ぼくたちいつの間にか国家の構成要因に組み入れられ、国家を成り立たせるために労働し、多くのお金を義務という名目で奪い取られるが、そのような国家という頂点の人間集団が十分に愚鈍となりうるのだと知った場合、何を感じるだろうか。