壺を1億円で売るのは詐欺だというのは本当か? 〜商売と詐欺の境界線〜

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お値段1億円になります!

壺を1億円で売るのは詐欺だというのは本当か? 〜商売と詐欺の境界線〜

・高額の壺を売りつけられる人々
・本来の値段からつり上げる商売
・商売と詐欺の境界線
・商売と詐欺の狭間に揺れ動く人の心

・高額の壺を売りつけられる人々

1億円とか考えられないくらいの高額で壺を売りつけられたという話が、よく詐欺の代表としてテレビや本などに紹介されている。ぼくは認知症のお年寄りとかならともかく本当にそんな話あるんかいなと疑問に思っていたが、意外にも壺を高額で買わされた人は身近にいたのだった。それは髪を切ってくれていた美容室のお姉さんである。

そのお姉さんは若くして東京の専門学校に通っていた時に、沖縄出身の彼女は東京に慣れ親しむことができずに精神的に追い詰められており、なんと20代前半で壺を騙し買わされたという話だった。この壺を買えば将来大丈夫とか幸せになれるとか言われたそうだ。

その時ぼくはお年寄りばかりが被害に遭うわけではなく、心身ともに弱り切っている人の心につけ込んで、たとえ若い年齢でも壺の詐欺に遭うのだということを知った。遠くから首都にやってきた人が困っているのを誰か助けてくれるわけでもなく、弱っているところを待ち構えて餌食にするなんて、人間の密集地帯は悲しい側面を持ち合わせている。

 

 

・本来の値段からつり上げる商売

しかしよくよく考えてみれば、壺を1億円で売ることって詐欺なのだろうか。その壺に1億円の価値があると思って買い手が買ったのならば、そこで値段交渉は成立しており、別になんの問題もないように見える。認知症であるとか、物事の判断がつきにくい精神的な病気であるならともかく、普通に思考能力のある人がその値段でいい、自分にとってその壺はその値段の価値があると判断したならば、それが詐欺だと見なされるのはどうしてなのだろう。

たとえば値段を釣り上げる様子というのは周囲の日常生活の商いの中にあふれている。本当は100円のものを200円で売るのはお店が利益を受け取るための当然の商売の仕方だと見なされているわけだし、もっとひどいものだと100円のものを1000円で売りつけたりしていることも普通にあるだろう。

原価がものすごく安いものでも、お洒落に仕上げたりデザインに凝ったりインスタ映えを狙うことによって、本当は100円の価値しかないのに3000円で売りつけるという欲張りな商売もこの世には多数存在しているはずだ。

 

 

・商売と詐欺の境界線

よく考えてみれば、100円のものを200円で売ることだって結構ひどいことではないだろうか。普通に考えて、どうして100円の価値しかないものを200円で他人に渡せるのだろう。それって嘘や偽りではないのだろうか。その追加料金は人件費だとかデザイン料だとか雰囲気代だとか土地代だとか言われるが、人件費とかデザイン料とか雰囲気代という目には見えないものの価値を追加できるのであれば、追加料金は途方もなくいくらでも追加可能ではないだろうか。

本当は100円の価値しかない壺を、1億円で売ったとして、これは詐欺ではありません売るために人件費ですとか綺麗な壺のデザイン料ですと言ってしまえば、100円を200円で売っているその他の商売のようにすべてゆるされまかり通るのではないだろうか。また「この壺には人の心を浄化する作用があります」とかなんとか言っておいて、買った人が本当に心を浄化されたと感じるならば、それは1億で売ったとしても詐欺には当たらないとも考えられるのではないか。

100円のものを200円で売るという偽りが「商売」という名目で通用するならば、「商売」と「詐欺」の違いの境界線はどこにあるのだろうか。本来は100円の価値しかないものを200円で売るという偽りは正当な「商売」として人の世で成り立つということに異論はないだろう。それでは100円を300円で?これもまだきちんとした「商売」だ。

100円のものを1000円で売るのは?まだ「商売」だろう。100円のものを3000円で売るのは?これも高級ホテルのレストランとかがやってそうな「商売」である。100円のものを10000円で売るのは?かなり怪しいがまだゆるされるだろうか。骨董品とかならこういうこともありそうだし、昔は100円の価値しかなかったものを今では貴重だからと100万円で売っている骨董品屋さんとかありそうだ。骨董品屋さんは「商売」として人の世でゆるされているお店だろう。

こう考えてみると「商売」と「詐欺」の境界線ってものすごく曖昧である。100円のものを1000万だとかにするとさすがに詐欺だろうか。100円の壺を1億で売ったらもう詐欺確定の匂いがする。程度の問題と言ってしまえばそれまでだが、それでは商売と詐欺の境界線ってきちんと法律で決められているのだろうか。しかし法律も偉いと言われているおじさんたちが寄ってたかって感性で決めた単なるルールである以上、そんなに頼りになるとも思えない。

 

 

・商売と詐欺の狭間に揺れ動く人の心

しかしこのように商売と詐欺を見比べて思うことは、商売というものは少なからず詐欺の要素を含むものであり、詐欺というものも商売という要素を多分に含んでいるのではないかということだ。商売と詐欺の境界線は蜃気楼のように曖昧なことこの上なく、だからこそ江戸時代の「士農工商」の順のように、商売というものは古来の日本人からも下に見られていたのかもしれない。新渡戸稲造も著書「武士道」の中で同様の考えを披露している。

「世の中にはさまざまな職業があるが、商人ほど武士からかけ離れているものはない。商人はわが国の職業の序列の中で最下位に置かれていた。その序列は士農工商と呼ばれ、武士を筆頭に農民、職人、商人の順となっていた。」

商人として頑張って地道に生きている人々がたくさんいる中でこのような考えはひどいものかもしれないが、真実を深く追求する瞳を養ったならば、このような本質が見えてくることは否定できないことかもしれない。

今日もたくさんの人々が、本当は100円の価値しかないものを嘘をついて200円で売っている。古代の純粋な交換行為なら、山の民と海の民が混じり合った際、同じ価値の山のお肉と同じ価値の海の魚を交換していたかもしれないのに。いつから価値は不均衡を生み出されたのだろう。どうして人はもっと欲しいもっと欲しいと、欲望に絡め取られる運命にあるのだろう。

 

 

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