人間は礼儀正しくあるべきだというのは本当か?

 

礼儀正しい人間など怪しいことこの上ない。

人間は礼儀正しくあるべきだというのは本当か?

・人間は礼儀正しくあるべきだというのは本当か?
・長崎県の中華料理屋さんのおばちゃんの一例
・敬語や礼儀正しさが、日本人の心を偽りへと導く元凶
・はるかに年上の後輩医師の一例
・高校時代の敬語を使わなかった後輩の一例
・礼儀正しくないフレンドリーな世界

・人間は礼儀正しくあるべきだというのは本当か?

「礼儀正しい」と言えば、一般的にはものすごくいいイメージだ。あまり親しくない間柄では礼儀正しい振る舞いが求められるし、接客の際にも礼儀正しい態度は気持ちよいものであるとされる。また「親しき中にも礼儀あり」という日本の諺も存在する。

人間社会の中で礼儀を身につけた人間はより上手に世渡りができるのでこの世の中を生きやすくなるし、目上の人には常に礼儀正しく振る舞わなければならないと日本社会では実質強要されているので、礼儀はもはや必須科目であるとも言えるだろう。もしも目上の人に礼儀正しく振る舞えなかったとしたら、儒教社会の日本ではそれだけで社会から抹消されてしまう可能性が高くなる。波風立たせずに穏やかにおとなしく米を買い続けたかったら、礼儀作法を習得するに越したことはないだろう。

儒教の中でも「礼」は、仁・義・礼・智・信という五徳の中のひとつとして重要視されている。それほどまでに礼儀正しいことは日本では正しい行為であるとされ、誰もが礼儀正しい人間の態度を求めているように見えるが、ぼくは正直に言うと、礼儀正しい態度なんて嫌いである。もっと仲良く、気楽に親しみを込めて、あらゆる人間同士が接することができないものだろうか。

 

 

・長崎県の中華料理屋さんのおばちゃんの一例

たとえば長崎県の中華料理屋さんで働いていたおばちゃんは、接客の際にものすごくフレンドリーだった。接客というのは通常礼儀正しさが求められるものだが、そのおばちゃんはぼくのお母さんくらいの年齢で、まさにお客と接客する人という一般的な構図は取り払われ、ただのおばちゃんと子供というような関係になり、親しみを込めて会話することができた。敬語もなく、礼儀正しくもない接客というのは、常識的にいえば嫌われるものだろう。しかしぼくは、これこそ人間同士の会話にふさわしいと感じてしまった。敬語もない、礼儀正しさもない人間関係というのは素晴らしいものだとぼくは人生を通して感じている。

敬語を使わないということが無教養で無礼な態度であるというのは本当か? 〜敬語を話さないという美しき世界〜

敬語もなくなり、礼儀正しさもなくなれば人間社会は秩序が乱れて駄目になってしまうと信じ込まれていそうだが、ぼくの意見では敬語もなく、礼儀正しさもなく、そんな心のこもっていない形式的なシステムなど排除した方が、美しい世界が訪れると強く感じている。敬語や礼儀正しさなんて、誠に嘘くさくないだろか。そんな偽物の形式がなくたって、当然のように人間は人間を心から思いやれるのだ。言葉の形や、肉体の所作なんて取るに足らない虚像だ。礼儀正しい振る舞いを喪失してしまえば礼儀正しい思いやりの心まで失ってしまうのだと世の中は勘違いしていそうだが、そんなことは決してないのではないだろうか。形式を失っても人間の慈悲の核の部分は確かに残るのではないだろか。むしろ社会で強要されている敬語や礼儀正しさという無為な形式たちが、ぼくたち人間の思いやりや慈悲の心をかえって見えなくし、ぼくたちの心はその形式のせいで迷妄の中にいるのではないだろうか。

 

・敬語や礼儀正しさが、日本人の心を偽りへと導く元凶

長崎県の中華料理屋さんのおばちゃんが他の一般的な店と同様に、礼儀正しく接客的に振る舞ったとして、彼女の心の中の態度は変わるのだろか。彼女が礼儀正しく振舞おうが、フレンドリーに振舞おうが、自分の子供くらいのぼくのことを”ただの子供”としか見ていないに決まっているのだ。それならばいっそ、自分の子供のように敬わずフレンドリーに接してくれた方が嘘くさくないではないか。

敬語や礼儀正しさというのは、いつも怪しく嘘くさいのだ。敬語を使用したり礼儀正しく振る舞うことで、本当にその人の心が尊敬の念を抱けるのなら話は別だが、そんなことは決してないと断言できるだろう。みんな敬語を使ったり礼儀正しく振る舞わなければクビになって社会的に抹消されるから礼儀正しく振る舞っているだけで、実際のところ心の中では敬ってなんかいないしむしろ見下している場合だって多々あるだろう。見下している人間に対して絶対的に尊敬の態度で振る舞わなければならないという強要が、いつの日も日本人を嘘つきにし嘘くさい存在にさせる。

本当は誰も、偽物の尊敬なんてしたくないのではないだろうか。見下している人には見下しているように振る舞い、本当に尊敬している人には形式ではなく日常の思いやりで伝え、そのようにしてありのままの自分を正直に表現しながら生きていたいのではないだろうか。日本の文化の中で生きていると、どんなん清らかで正直な表現者であろうと否応なしに嘘つきにされてしまうことが、日本人の悲しい宿命ではないだろうか。自分の中の嘘に苦しみ、そのギャップと違和感に次第に心を侵食され、気づいたら心が動けなくなっていないだろうか。

 

・はるかに年上の後輩医師の一例

ぼくが医者として働いていると、後輩に年上の医者が何人もいた。医者になるために、一度大学を出てから医学部に入り直す人も多かったので、医者になってからひとまわりほど年上の後輩がいるというのも至極自然なことだった。年上の後輩の彼らは、当然日本の文化に従ってぼくに敬語を使い礼儀正しく振る舞ってきた。

しかしひとまわりほども年の違う彼らが、ぼくのことを尊敬などしていないことは火を見るよりも明らかだ。そんなのどう考えたってぼくのことを「子供だ」と思っているに決まっている。もしかしたら「クソガキ」くらい思っていたかもしれないが、ひとまわり年が違うのだからそう感じるのも自然なことだ。しかしそれでも彼らはぼくに礼儀正しく敬語で振る舞わなければならない。これほど嘘臭さに満ち溢れた世界があるだろうか!

 

 

・高校時代の敬語を使わなかった後輩の一例

ぼくはもうはるか昔の中学生の頃から敬語の怪しさと嘘臭さに気づいていた。そして尊敬というのは敬語などの言語形態で示す偽物であってはならない、真の尊敬というのは普段からの細かな心遣いで表現してこそ本物だと感じていたのは今現在と同じである。それゆえ敬語を使われたり礼儀正しく振る舞われることも嫌いだった。

ぼくの高校時代にぼくに敬語を使わない後輩がいたが、上記のような理由でぼくはそれが嬉しかった。たかがひとつ年が違うくらいで人間がその人を尊敬し始めるわけがないので、彼の態度は正直で正しかったのだ。しかしお互い大学に入ってから会う機会もなく、お互い久々に社会人になって会った時、彼は敬語を使い礼儀正しくなってしまったので衝撃だった!しかし高校の時に尊敬していなかったのに、それからずっと会わないままで、急に大人になってぼくのことを尊敬しだすはずなどないのだ。彼は完全に世渡りと社会性と常識を身につけ、そして嘘つきになってしまったのだ!ぼくにはそれがとてもさみしかった。

 

 

・礼儀正しくないフレンドリーな世界

礼儀正しい世界と礼儀正しくないフレンドリーな世界だったら、ぼくは迷わず礼儀正しくない世界を選ぶだろう。礼儀正しいからと言って、本当にその人が尊敬してくれているわけがない。礼儀正しい人の態度と心のギャップは、フレンドリーな人の態度と心のギャップに比べてはるかに大きく、その人自体が嘘っぽく怪しいのだ。

もしもフレンドリーな人に陰口を言われてもその人はただの「悪口を言う人」だが、礼儀正しい人に陰口を言われたならばその人は「大嘘つき」だ。そのように感じないだろうか。いつまでぼくたちは偽物の世界に閉じ込められたままでいなければならないのだろうか。

 

 

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