ウミヘビは海でしか生きられないというのは本当か? 〜出雲と宮古島をつなぐもの〜

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宮古島と出雲の神秘的な物語。

ウミヘビは海でしか生きられないというのは本当か? 〜出雲と宮古島をつなぐもの〜

・宮古島の通り池
・陸をも歩くウミヘビ
・ウミヘビでつながる出雲と宮古島
・人生初の出雲大社への旅
・自作詩「あらゆる中点を浮遊していつの日か無へと帰せ」

・宮古島の通り池

宮古島から橋でつながれた離島、下地島には通り池という不思議な海がある。辺境にあるものの観光地化されており、珊瑚の陸の上に架けられた木道に沿って歩くと、岩が巨大に窪んだ中に海水が溜まっているふたつの”通り池”を確認することができる。

木道が絶えたところからさらに、歩きにくい珊瑚の陸の上を敢えて歩いて行くと、灰色の崖の下にもうひとつの通り池が見えてくる。宇宙のような色彩、子宮のような海鳴り。その幻想的な風景に、ぼくたちは戸惑い、やがて自然と心惹かれていった。それはまるで、ここを訪れることが生まれる前から決まっていたような、不思議な感覚だった。

宇宙のような通り池に、真夏の通り雨と光が降り注いだ。深い罪を背負ったあなたはやがて気がつく。たとえこの世で最も深い罪をあなたが抱えていようとも、それはあなたの旅路を占領しない。それは一生を超えることもある。宇宙に保存されることもある。けれどあなたの魂にこびりついた罪は、この世で最もささやかなものによってゆるされる。南の島の通り雨と光という、純粋で荒々しい自然の禊が、あなたを罪という呪いから解放する。

ぼくたちは通り池の、真夏の通り雨に打たれて、すべてをゆるされて透明になった。

この世で最も深い罪はゆるされないというのは本当か?

 

・陸をも歩くウミヘビ

あらゆるものを脱ぎ捨てて泳いだ宇宙。ぼくたちはそこでウミヘビに出会った。それはまるで通り池の主が、ぼくたちという侵入者を信頼するに値するのかを試すかのように、足元を滑らかに泳ぎまわり宇宙の岸辺を行ったり来たりした。それは神のような畏れを抱かせると共に、畏れを通り越した境地にある美しささえも携えていた。清らかな青と漆黒の色彩は、宇宙の海と同化して、ウミヘビと海でまるで蠕動するひとつの宇宙のように揺らいだ。

そしてぼくたちは目撃した。やがてウミヘビが海の宇宙から退いて、灰色の珊瑚の陸を這い上がって行く姿を。ウミヘビは大海を泳ぐだけではなく、陸をも自由に這い進めるんだ。

蛇なのに海に住むウミヘビ。ウミヘビなのに陸を行くその姿。海と陸の両界を分かち合い、そのふたつを自由に行き来し、ふたつの世界の橋渡しをしている。両界の間の島に立つ、そのお姿は神聖の証。何ものにも属し、そして何ものにも属さない、その存在はまれびとの化身。その命にどれほどの孤独が注がれ続けたのだろう。悲しみも迷いも取り除かれた宇宙の野生で、健やかに幸福に生きられよ。

 

 

・ウミヘビでつながる出雲と宮古島

出雲と宮古島は、ウミヘビでつながる。10月のことを、出雲だけは神有月と呼ぶ。10月に日本全国の神様が、出雲に集まってくるからだ。そして神様が帰ってきたことを、出雲の人々はどのように知ることができるのか。ウミヘビが陸に打ち上げられた様子を見て、彼らは神の帰省を感受するという。

出雲のウミヘビの話を聞いた時、ぼくの思考は既に宮古島の通り池を旅していた。ぼくたちはあらゆるものを関わらせ、繋げ合わせることができる。出雲と宮古島というつながりようもない聖地が、ウミヘビによってつながる。ウミヘビが陸を行く不思議な姿を、古代の人々も眺めて神聖を感じたのだろう。ぼくたちが通り池の宇宙で、まさにそう感じたように。

ウミヘビは出雲と宮古島だけではなく、古代と現代の人の心さえ繋いで行く。自らが陸と海の両界の神聖な架け橋であるように、まさにそのようにして、あらゆるものに橋を架けていく。

 

 

・人生初の出雲大社への旅

導かれるようにして、人生初めての出雲大社へたどり着いた。神殿に架けられたしめ縄が、まるでこの世のものとは思えない大蛇のように見えた。見えない歴史が隠されている国。学ぶわけではなく、古代を感じ取る国。ぼくは出雲にそのような印象を抱いた。

暴力で勝った者だけが、歴史を語っていく。真実ではなく勝者の紡ぐ物語が、歴史として名を馳せていく。敗れた者は、手も届かぬ遠い時の彼方。日本海のように薄暗い、淡い光の波の彼方。過去が今を象っていくのに、ぼくたちに知らされる過去は都合のよいツギハギばかり。ぼくたちは過去という鏡に映る自分が、虚しく曇って見晴るかせないことを知る。

暴力の苦手なことがそんなにも罪なことだろうか。小賢しくないことがそんなにも無力なことだろうか。歴史は暴力に優れた者を勝者とし、暴力に優れた者の思いのままとなる。それではまるで、言葉を持たない動物と同じ。ぼくたちが受け取る歴史は、勝者に都合のいい歪な形。人の世の真実は時を貫く力さえなく、暴力と美徳によって捻じ曲げられる。曇りガラスの向こうにある、ぼやけた過去へと心は走る。

暴力により世界を支配できるのは本当か? 〜非暴力の彼方へ〜

確かではないからこそ、ぼくたちは過去に立ち向かう意義を見出す。出雲は葬られた過去を思い偲ぶ場所。わからないことをわからないと笑う場所。わかりきった過去を受け取るのは、きっと味気ないに違いない。わかりきった自己を生きることは、きっとつまらないに違いない。

きっとまた帰ってこよう、美しい神々の里、出雲へ。はるかなる巨大神殿の謎も、消えた出雲族の正体も、見知らぬ歴史の雲の彼方。陸を行くウミヘビが繋げてくれた出雲の地。

聞いたこともない二礼四拍手一礼の不思議な参拝の仕方、逆向きに設置されたしめ縄、南ではなく西の方角へと向けられた神様。不思議なものは、不思議なままで。わからないものは、わからないままで。不思議だからこそ、わからないからこそ、何度でも帰ってこよう。何度でも深い過去を味わおう。

 

 

・自作詩「あらゆる中点を浮遊していつの日か無へと帰せ」

名を忘れて生きてみたい
日を忘れて生きてみたい
時を忘れて生きてみたい
性を忘れて生きてみたい
国を忘れて生きてみたい
血を忘れて生きてみたい
人を忘れて生きてみたい

ただそんな風に
旅するように生きていたい

与えられて当たり前だと
教えられたものたちを
当たり前のように解き放って
持たなければならぬと掴まされた
牢屋のような記号たちを
見境もなく解体して

旅するように歩き出そう
何ひとつ持たないままで
冷たい砂漠を歩き出そう
自分すら持たないままで

本当の世界を見つめたかった
純粋な世界を見つけたかった
だから歩き続けた

わずかな望みさえ絶え果てた道が 目の前に横たわっていたとしても

男にも女にもなりきれない
人間にも動物にもなりきれない
大人にも子供にもなりきれない
愛にも毒にもなりきれない
生にも死にもなりきれない

便利だからと分け隔てた
悲しみを秘めた線の上
本当はそこにないのに
誰もがあるというからそこにある
線の上

そこから見える景色は
“無の荒野”
あるということと ないということの
間に位置する無の荒野だ

ああこの命

あらゆる中点を浮遊して いつの日か無へと帰せ

 

 

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