古文を勉強する理由と価値を徹底解説!古文を勉強する意味なんてないというのは本当か?

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古文を学ぶ意味は絶対にある!!!!!古文を勉強していてよかったぼくの実体験を公開します。

古文を勉強する理由と価値を徹底解説!古文を勉強する意味なんてないというのは本当か?

・古文を勉強する意味なんてないというのは本当か?
・今の日本はあらゆる古代の日本を内在しながらできている
・百人一首の記憶に導かれ、「田子の浦」にうち出てみた
・百人一首という芸術と富士山という大自然を通して古代の人と心を通わせることができる美しい国、日本
・数学の食塩水の勉強をしていないと人生で大変な目に遭うという事例はこちら!

・古文を勉強する意味なんてないというのは本当か?

高校の英語の授業で先生が「英語は海外に行ったときに実際に使えてかなり役に立つから勉強しがいがある。それに比べて国語の古文なんて、勉強しても仕方ないんじゃないだろうか。だって昔の日本語で今は誰も喋っていないんだから、実際に使うことができないじゃないか」と言っていたのを思い出す。高校生の当時のぼくはほーそういうものかなぁと軽く聞き流していたが、なんとなく違和感の残る言葉だった。果たして本当に今さら昔の日本語や古文を勉強する意味なんてないのだろうか。

 

 

・今の日本はあらゆる古代の日本を内在しながらできている

ぼくは昔の日本のことを知るのが好きだ。日本昔ばなしも大好きでいっぱい見てきたし、百人一首なども情緒深くて感動する。昔の日本を知ったときに、今の日本と同じような感情や体験があると、やっぱり今の日本と昔の日本ってつながっているんだなぁと感じられて面白いではないか。

歴史を勉強していると、日本という国はたくさん変化して、様々な出来事を経て今の日本までたどり着いたようだ。縄文人と今の日本とは全然違うし、平安時代と今の日本も全然違う、侍が街中を闊歩していた時代とも全然違うし、戦争で貧しかった時代とも違う。けれどぼくが思うのは、今とは全然違うけれど、どれもこれも全て日本の姿だったということだ。

今の日本というのは、どのようにしてできたのだろうか。戦争で負けて貧乏だった日本を脱ぎ捨てて、今の日本になったのだろうか。侍のいた時代なんて捨て去って、今の日本を手に入れたのだろうか。縄文時代の日本なんてすっかり失って、今の日本が立ち現れたのだろうか。

本当はどの日本も、捨て去っていないのではないだろうか。今の日本の中には、縄文時代も、平安時代も、江戸時代も、第二次世界大戦も、戦後貧しかった日本も、全部全部ひっくるめて、全ての過去の日本を土台として、今の日本の存在が可能になっているのではないだろうか。逆にいうと縄文時代をうっかり捨てたり、平安時代を軽視したり、第二次世界大戦の歴史を喪失したりすると、過去の土台をすっかり失ってしまって、もはやこの世に存在できなくなってしまうのではないだろうか。

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ぼくたちは新しいもの、流行のもの、未来のものに気を取られすぎて、過去のことを忘れがちになる。しかし今という時間が過去というものを土台として成り立っている以上、今を生きているぼくたちが過去を無視することはできない。過去を学ぶということは、今の自分自身を知ることと同義ではないだろうか。誰だって自分のことを知りたいに決まっている。自分という不思議な存在を鏡に映して眺めたければ、まず過去を読み解く必要があるのではないだろうか。

そのような観点から言えば、日本の古文を学ぶということには大いに意味がある。過去を学ぶことは今を深く知ることに繋がり、やがて未来を創造する原動力となるのではないだろうか。

 

・百人一首の記憶に導かれ、「田子の浦」にうち出てみた

ぼくが中学生の時の国語の授業で、百人一首をかなり真剣に勉強させられた期間があった。全ての百人一首がひとつひとつ丁寧に解説され、記憶させられ、その詳細が国語のテストに出題された。それゆえにぼくは百人一首を今でもよく記憶している。普通こんなものすぐに忘れてしまうものかもしれないが、ぼくは結構百人一首に感動して、古代の日本人の美しい感性に触れるのを楽しみながら勉強していたのでよく覚えているのだった。

つい最近まで実行していた「日本海沿いを北上する旅」「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の車中泊の旅の中で、静岡県の道路を車で走っていた際に、ぼくは案内表示の看板に「田子の浦」という地名を見つけた。百人一首を知っている人ならば「田子の浦」という地名から一首頭の中でピンと思い浮かぶに違いない。

”田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ”

中学生のぼくには、田子の浦の場所なんて全然わからなかったが、そうか「田子の浦」とはこのような場所にあったのか!もしかして田子の浦へ行けば、百人一首が教えてくれているように、ものすごく綺麗な富士山が見られるのかもしれない!そう思うといても立ってもいられなくなり、進路を変更して「田子の浦」の方角へ向かってみた。

 

 

・百人一首という芸術と富士山という大自然を通して古代の人と心を通わせることができる美しい国、日本

「田子の浦」を目指していたぼくは「ふじのくに田子の浦みなと公園」へとたどり着いた。その展望台からの眺めが、本当に本当に最高だった!!!どうぞご覧ください!

 

 

 

 

どうこの美しい富士山の絶景!!!!!

しかもこの富士山の絶景を見られたのは、ガイドブックを見たからでも、インターネットで情報を収集したからでもない。ぼくは百人一首の歌に導かれて、偶然この絶景へたどり着いたのだ。つまり古代の歌を詠んだ日本人が、時を超えてぼくにこの絶景のありかを指し示してくれたということと同じである。そして未来の日本人であるぼくが中学校の国語の授業でその古代の歌を習得し、記憶し、大人になった今になるまできちんと覚えていたからこそ、ぼくはこの絶景を眺めることができたのだ!この心の中の感動の嵐が、あなたにも伝わるだろうか。

日本という国は素晴らしい国だと、ぼくは富士山の絶景を眺めながら感動せずにはいられなかった。ぼくは今この田子の浦の地に立ち、古代の日本人とこの富士山の絶景を共に眺め、共に感動しているような気分になった。百人一首という言葉の芸術を通して、そして富士山という日本一の山の大自然を通して、ぼくは古代の日本人と感動を分かち合うことに成功したのだ。このような珍しい種類の奥深い感動が、果たして日本以外でできるだろか。日本人が古来より百人一首を受け継いでくれた文化的営み、そして富士山が古代から変わらずに日本一の山として君臨してくれているという自然の神秘、日本の民族と日本の自然が織りなす美しい交差点に、ぼくは今立っているのだ。

このような美しい体験は、ぼくがきちんと古文の授業を習得し、百人一首を覚えていたからこそ生み出されたものだ。これからもまだまだ、この美しい日本で美しい旅の経験を積み重ねていくのかもしれない。時を超えた日本の美しい体験をより多く実現するために、古代へのアンテナをより広く張り巡らし、日本の美しい古文や古語に触れておくのも、決して悪くはないんじゃないだろうか。

 

 

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