グダグダ言い訳ばっかりして自分は悪くないと開き直ってもいいというのは本当か?

 

グダグダ言い訳ばっかり言ってんじゃないわよ!!!!!

グダグダ言い訳ばっかりして自分は悪くないと開き直ってもいいというのは本当か?

・グダグダ言い訳ばっかり言ってんじゃないわよ!
・87歳のおばあちゃんの「せやけど」
・「せやけど」はすべての人間の正体
・「自分が悪い」と思うことを強要される大人の社会
・王様の少年
・年を取りすぎると少年に帰る
・王様の少年の出迎え
・グダグダ言い訳ばっかりして自分は悪くないと開き直ってもいいというのは本当か?

・グダグダ言い訳ばっかり言ってんじゃないわよ!

中島みゆき夜会「問う女」は言葉の本質を追求するという内容の、ぼくが夜会の中で最も好きな作品だ。その作品の中に中島みゆき演じる主人公が、友達のケイコに彼氏を寝取られたことを電話で知るというシーンがある。中島みゆきと彼氏との電話の会話で、彼氏がどうしてみゆきを裏切りケイコに乗り換えたのかをみゆきに長々と論理的に説明しているシーンの途中で、みゆきが怒りに声を震わせて彼氏に一言!

「グダグダ言い訳ばっかり言ってんじゃないわよ!」

そのセリフがとてもリアリティがあって、恨みつらみがこもっていてとても印象に残っている。もしかしてこれは演技ではなく、本当に中島みゆきはケイコという女に彼氏を寝取られた過去でもあるのだろうか。そう思ってしまうくらい実感のこもった演技だった。

 

 

・87歳のおばあちゃんの「せやけど」

ぼくはおばあちゃんっ子だが大好きなおばあちゃんももうじき88歳になり、最近気になるのが会話の変化だ。昔はそんなことなかったが、最近何かにつけて「せやけど」と返してくるようになったのだ。

何かおかしなことや奇妙なことを指摘すると、受け入れるよりも前に「せやけど」という接続詞をまず返し、その後にもっともらしい論理を展開するが、結局言いたいことは一点に帰着する。それは「わたしは悪くない」「自分のせいでは決してない」ということだ。

「せやけど」「せやけど」という会話を連発し、まず相手のいうことを否定した上で、論理的な言い訳で自分の都合のいいように会話と思考を展開し、そして最後にはたとえどんなことでも「自分は悪くない」のだと主張して終わるようになってしまった。

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・「せやけど」はすべての人間の正体

ぼくはおばあちゃんがそうなってしまったことを、ダメなことだとか悪いことだと言いたいのではない。そうではなくてぼくが感じるのは、この世に生きているすべての人間の思考回路は実はこのようにできているのではないだろうかということだ。

相手に何か自分が悪いのだと指摘されようとも、自分は悪くならないように脳内で言い訳を構築し、最終的には「自分は悪くない」のだという結果を出すことで、罪悪感に苛まれることなく気楽に生きていくことができる。このような思考回路こそ、すべての人間の正体ではないだろうか。

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・「自分が悪い」と思うことを強要される大人の社会

もちろん世の中を見渡せば、このような思考の大人は少ないように見える。

大人の世界で周囲を見渡せば、自分が悪いのだという態度であふれている。「自分なんて未熟者だ」「自分なんてダメな人間です」「悪かったのはすべて自分ですすいません」「自分のせいでこのようになってしまった申し訳ありません」などと、自分を卑下したり自分に責任を負わせて謝罪するような場面が世の中には満ちている。

東アジアの精神構造を支配する儒教は、人と人の間にありもしない「上下関係」を作り出し、下の者は目上の前では自分を卑下するようにしつけられ、目上の言うことを絶対に守り、自分の意見を言うことさえゆるされないような、目上に都合のよい部品のような人間性に強制的に仕立て上げられる。また社会の中ではお客様が最も偉いのだと、ここでもありもしない上下関係が形成され、明らかに自分が悪くなくても客だから謝罪しなければならない場面は社会にいくらでもある。

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しかし社会的には自分はダメな人間だ、自分が悪いのだと思っているように体裁で見せかけていたとしても、彼らの本性や根性はどのような姿をしているのかはわからない。

 

・王様の少年

子供というのは万能感にあふれている。自分は世界の王なのだと言わんばかりの万能感にあふれ、自分は絶対に悪くないのだと堂々と泣き喚くことができる。

ぼくたちは誰もがそんな万能感にあふれた子供時代を一度は体験して大人になる。「自分は王様だ」と思いっきり威張って生きられる子供と、「自分が悪いんです」と頭を下げながら社会的に生きている大人は、まるで正反対の別の生き物のようだ。

「自分が悪いのだ」と社会的にいつも謝罪しているあの男は、「自分は王様だ」と威張れる少年の自分を捨て去って、社会的大人としての自分を手に入れたのだろうか。いや、王様の少年は彼の奥底で静かに眠っている。彼は王様の少年を過去の中に投げ捨てて、謙虚な社会的な大人の自分をまるで新しく手に入れたかのように演じているけれど、本当は彼の奥底に宝物のように王様の少年を隠し持ち、少年と共に今も暮らしているのだ。

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もしも社会の中で彼がいつものようにしつけられた通りに「自分が悪いのです」という態度をとったならば、すぐに彼の奥底に隠れている万能感あふれる少年が彼を助けにやってくる。そして心の奥底で「大丈夫あなたは悪くない」「悪いのは全部他人だ」と彼を優しく慰める役割を果たしていく。それゆえに社会的大人の彼は、口や心の表層では「自分が悪い」と言いつつも、本質的な根っこの部分では「自分は悪くない」と絶対的に信じられるからこそ、彼は自分の生命を維持してここまで生き長らえることができているのだ。

もしも彼が少年の手助けを得られなくなったら、社会に植え付けられた「自分が悪いのだ」という無限の罪悪感に苛まれて、たちまちのうちに自殺して死んでしまうだろう。自分の奥底に王様の少年を、過去の万能感を、ダイヤモンドのような揺るぎない自己愛を持っているからこそ、彼は今も死なずに生きていられるのだ。

 

 

・年を取りすぎると少年に帰る

人間は誰でも奥底に王様の少年や少女を隠し持っている。隠し持っているからこそ、死ぬこともなくしぶとくもこの世で生き続けることができたのだ。王様の少年や少女を喪失した人間は自己愛を注ぎ込む泉源を見失い、浮世から押し寄せる洗脳の罪悪感に飲み込まれて、自動的にこの世から抹消されるだろう。

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ぼくのおばあちゃんも奥底の王様の少女に、大人になるにつれて社会的な表層の仮面を被せて誰にも見えないように隠し、自分を悪者だと思える社会的な大人になったふりをして87歳まで生き続けてきたのだろう。これはほとんどすべての人間と同じ人生である。

しかしあまりに年を取りすぎると、頑張ってついてきた嘘が剥がれてくる。自分が悪いのだと思っているという、今まで延々とつき続けてきた人生最大の偽りが、年をとると溶けてなくなってくる。そして王様の少女が久々にこの世に顔を出す日がやってくる。何年ぶり、いや何十年ぶりに、王様の少女はこの世の光を浴びることをゆるされる。

自分は特別な存在ではないというのは本当か?

あまりに年を取りすぎると、人は子供に帰るのだろう。自分は何も悪くない、悪いのは全部世界だ、自分は特別な人間なんだ、自分は素晴らしい人間なんだと、堂々と言えたあの頃の、少年や少女たちがちょっとだけこの世に帰郷する。

 

・王様の少年の出迎え

彼らを迎えてやらないで、ぼくらは他に何ができるというのだろう。「あなたは言い訳ばかりするようになった」「あなたは年をとってから自分が悪いと全然認めなくなった」「あなたは自分が何もかも正しいと思っている傲慢な人間だ」と、彼らを責め立てることが、果たしてぼくたちの仕事だろうか。

彼らももう長くはない。もうすぐこの世を立ち去ってしまうとわかったからこそ、彼らは自分の奥底に一生をかけてずっと隠してきた王様の少年や少女を、せめて最後くらいは外の世界を見せてやりたいと、自らから解放さしてやったのだ。ぼくたちは彼らに慈しみを抱き、彼らをそっと見守るべきである。彼らの正体は、人間の根源なのだから。

 

 

・グダグダ言い訳ばっかりして自分は悪くないと開き直ってもいいというのは本当か?

「言い訳ばかりをグダグダと言う」「自分の非を認めない」「自分がいつも正しいと思ってる」

社会の中でそんな人間に出くわしたとき、ぼくたちは違和感や苛立ちを抑えることができないだろう。しかしそれはまた、自分たち人間すべての正体と本質でもあるのだ。不用意に自分自身の奥底を鏡で見せつけられたような気がするから、なんだか不快に感じるのかもしれない。

ぼくたちが人間の正体を、王様の少年と少女の成り立ちを予めしかと見定めているならば、ぼくたちは彼らに心を惑わされることなく、安らかにこの世を渡っていくことができるだろう。せいぜい彼らは、王様の少年や少女を隠さずには生きることができないのだろうと、彼らのどうしようもない性質を思いやってやるくらいでちょうどいい。

 

 

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