鬼滅の刃・竈門炭治郎の運命を仏教的に考察!人生が徹底的な絶望から始まるというのは本当か?

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徹底的な絶望から人生の物語を始めよう。

鬼滅の刃・竈門炭治郎の運命を仏教的に考察!人生が徹底的な絶望から始まるというのは本当か?

・アマゾンプライムで初めて「鬼滅の刃」を鑑賞した
・「鬼滅の刃」の根底には仏教思想と儒教思想が流れている
・「鬼滅の刃」の物語は徹底的な絶望から始まる
・「竈門炭治郎のうた」
・仏教の根本原理は人生を苦しみ、絶望だととらえること
・徹底的な絶望を抱えてこそ、真実の幸福への扉は開かれる

・アマゾンプライムで初めて「鬼滅の刃」を鑑賞した

先日「鬼滅の刃」というアニメをアマゾンプライムで全話鑑賞した。子供たちに大人気だというから見てみたが、可愛いキャラクターからは予想もできないほど、あまりにも血みどろな物語なのでびっくりした!確かに面白いけれどこんなに毎回血が出てきたり、首とが肉体が引き裂かれたりして、子供達は怖くないのだろうか。こんなの見て夜中トイレに行けなくなってしまうのではないかととても心配だ。

 

・「鬼滅の刃」の根底には仏教思想と儒教思想が流れている

ぼくが気になったのは「鬼滅の刃」がとても日本らしい物語だということだった。鬼とか、天狗とか、ひょっとことか、狐とか、とにかくありとあらゆる日本らしいモチーフで溢れかえっている。ぼくはつい最近まで日本一周の旅をしていて、九州地方から北海道の北の果てまで行ってまた戻ってきたので、日本という祖国を深く体験して古代から受け継がれてきた伝統にたくさん触れてきたからこそ、「鬼滅の刃」の日本らしさがとても印象に残った。

また単純に日本伝統のキャラクターを持ち出しているだけではなく、日本の仏教や儒教の思想がとても色濃く打ち出されているような印象を受けた。ある意味すごく懐かしくも古めかしい思想の作品だと言えるだろう。たとえば主人公の炭治郎は、ひどい痛みをこらえてきた自分自身をふり返った時に「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」とまさに戦いの最中で不意に言い出すので驚いた!

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こんな風に「長男だから」「次男だから」なんて言い出すような日本人が、今の若い人にいるだろうか。ぼくはこのようなセリフを、儒教思想の未だに強い韓国人の友達からは聞いたことがあったが、日本人でこんな古風なことを考えている人を今までで見たことがない。物語の舞台が大正時代だから、古めかしい儒教の思想がまだ残っているという設定なのだろうか。

 

 

・「鬼滅の刃」の物語は徹底的な絶望から始まる

物語の端々で垣間見られる儒教的思想よりももっと壮大に、「鬼滅の刃」の物語全体を貫いているのはまさに仏教思想だとぼくは感じた。それは、物語が徹底的な絶望から始まるからだ。

鬼滅の刃の物語は、主人公の炭治郎が町に行っている間に、山で住んでいた母親やほとんどの幼い兄弟を鬼に食い殺されるところから始まる。かろうじて妹の禰豆子だけは生き残っていたが、鬼の血が入り込んでしまったために鬼になってしまっていた。今まで平和に暮らしていた家族の幸せを突如として奪われ、家族全員を血みどろで食い殺された挙句、残ったたったひとりの妹も人間ではなくなり鬼へ化けてしまうという、徹底的な絶望から炭治郎の冒険は始まる。

それは鬼になってしまった妹の禰豆子を人間に戻すために、鬼と戦い続けるという壮大な旅だ。徹底的な絶望を受けているにもかかわらず、立ち止まったりクヨクヨしたりしないで、起きてしまった過去はもう仕方のないことだとむやみにふり返らずに、ただ前だけを向いて進んで行く主人公の積極的な姿勢に触れるということに、このアニメを見るまずひとつの大きな価値があると言えるだろう。主人公の生き様を歌った「竈門炭治郎のうた」という歌でも、絶後を切り開きながら前向きに生きる姿勢が描かれている。

 

 

・「竈門炭治郎のうた」

”目を閉じて 思い出す
過ぎ去りし あの頃の
戻れない 帰れない
広がった 深い闇

泣きたくなるような 優しい音
どんなに苦しくても
前へ 前へ 進め 絶望断ち

失っても 失っても 生きていくしかない
どんなに打ちのめされても 守るものがある”

 

・仏教の根本原理は人生を苦しみ、絶望だととらえること

この絶望こそがスタート地点だという視点は、まさに仏教の始まりであるブッダの物語に通じている。仏教の根本原理というのは、人生を苦しみととらえることから始まる。ぼくたちは生きていくほどに、必ず「生老病死」、すなわち生まれて、老いて、病んで、死んでいく運命にあると仏教は説く。誰もこの生老病死の苦しみから逃れられる者はおらず、この世の全ての人間は今どんなに元気で健やかでも、やがて老いて、病んで、死んでいくという絶望的な運命の中にあるのだ。どんなに偉くなって権力を得ても、お金持ちになって富み栄えても、美しい容姿に生まれて褒め称えられても、誰もが絶対に老いて病んで虚しく死んでいくのだ。

人間はどうせ死んでしまうのだ、人生は苦しみである、人生は絶望である、そのような視点から仏教は始まる。それならば生きていても仕方ないではないか、どうせ死ぬんだから生きていても無駄ではないかと思い込んでしまいそうになるがそうではなくて、人生は苦しみなのだと諦めることを始まりとして、人生は絶望的なものだと見出すことをスタート地点として、それでは自分はどのように生きていけばいいのか、苦しみの中を、絶望の中をどのように必死で生き抜いていくことができるのか、それを考えることが仏教的思想の目覚めなのだ。ブッダは人生が「生老病死」の苦しみで満たされていることを知り、出家してインドの菩提樹の下で悟りを開いた。

炭治郎の物語もまさに絶望から始まる。家族思いで幸せな家庭の中に暮らしていると感じていた炭治郎だからこそ、家族が鬼に食い殺されたという悲しみはより一層深いものに違いない。しかも唯一生き残った妹はあろうことか鬼になってしまった。その絶望は計り知れないものだろう。しかしその徹底的な絶望の中で立ち止まらないところに、主人公炭治郎の価値がある。

徹底的な絶望を受けたから生きることをやめてしまうのではなくて、徹底的な絶望の中にいても、どうにかして光を見出そうとする姿勢は、まさに本来の仏教徒そのものではないだろうか。逆にいえば真実の幸福や悟りというものは、徹底的な絶望を課せられるからこそ見出せるものなのかもしれない。徹底的な絶望というのは真実の幸福へと導かれるための、なくてはならない条件だ。徹底的な絶望なしに、ただ平凡な日常を享受しながら悟りを開くことなどできはしない。徹底的な絶望というのは、その人が真実の幸福へと導かれるための羅針盤なのだ。

 

 

・徹底的な絶望を抱えてこそ、真実の幸福への扉は開かれる

もちろん炭治郎のように家族を鬼に食い殺された人はいないだろうが、家族を鬼に食い殺されることはなくても、ぼくたち人間には様々な絶望を抱きながら生きていかざるを得ない運命を背負う者もある。他人からは普通の人間のように見られ、何の悩みも苦しみも抱えていないように思われいても、本当は心の中でもがきながら泣きながら、必死で自分に課せられた絶望的な運命の中を生き抜いている者もある。本当は心の中で絶望していつも泣いているのに、誰にも悟られないように笑いながら生きていくしかない者もあるだろう。

けれど徹底的な絶望からスタートしなければ、誰も真実の幸福へとたどり着くことはできない。これは仏教を湛えながら文化を発展させてきたアジアに共通する秘められた感性ではないだろうか。ぼくはアマゾンプライムでアニメを1クール見たのみなので結末も何も全く知らないが、おそらく徹底的な絶望から始まった炭治郎の物語も、最終的には真実の幸福を手にするのではないだろうか。それこそがアジアに生きている日本人の感性と言えるのではないだろうか。

 

 

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