「ただどうやら戦争が終わったらしいということが何となくわかった。」
天皇の玉音放送の内容を日本人は理解していたというのは本当か?その2 〜ひいおじいちゃんの残した第二次世界大戦の終わりの話〜
・玉音放送は第二次世界大戦の終わり
・ぼくのひいおじいちゃんには一代記がある
・ぼくのひいおじいちゃんの玉音放送の思い出
・ぼくのひいおじいちゃんの松茸の思い出
・玉音放送は第二次世界大戦の終わり
「玉音放送」とは第二次世界大戦の敗戦を知らせるために、天皇陛下が直々にラジオでお話しされ戦争の終わりを日本国民に告げたという1945年8月15日の放送のことである。当時は天皇は「神様」だと学校で教えられていたので、天皇のお声を聞いたのはこれが初めてである国民が大半だったという。
前回の「天皇の玉音放送の内容を日本人は理解していたというのは本当か? 〜おばあちゃんから聞いた戦争の終わりの話〜」では、今も生きている88歳のおばあちゃんから聞いた戦争の終わりのその瞬間の話をまとめた。天皇のお話しは難解であり、どのような内容をおっしゃったのかまったくわからなかったというのが彼女の8月15日の思い出だった。
・ぼくのひいおじいちゃんには一代記がある
ぼくたちが生まれる前の老人の昔話を聞き取り、それを後世に伝えていくことも大切ではあるが、しかしたったひとりだけの思い出話では心もとない。ぼくたちは何人もの人から情報を集め、それをまとめることにより、より純粋でより正確な昔話を形成していくべきである。
そこでここではぼくのひいおじいちゃんの玉音放送の思い出を記そうと思う。ぼくのひいおじいちゃんは亡くなる前に自分の人生についての一代記を残しており、ぼくたち子孫は今でもそれを読むことにより、古の時代に心を偲ばせることができる。やはりその時代を生きた人々にとって、1945年8月15日は衝撃的な日であったらしく、ひいおじいちゃんも一代記の中でその日について詳しく記している。
・ぼくのひいおじいちゃんの玉音放送の思い出
「八月十五日正午、ラジオで重大発表があるというので一同はラジオの前に集まったが、天皇陛下のお言葉はよく聞き取れず、何を言われたのか一向にわからず仕舞いであった。ただどうやら戦争が終わったらしいということが何となくわかった。
それまで私たちは政府の流すニュースを信じて戦争に協力し頑張ってきたことがなんとも馬鹿らしかった。
今ここであらためて國のために命を捧げた多くの兵隊さんや原爆や空襲で亡くなられた方、また外地で苦労されて倒れた方々、多くのこれらの方々に感謝して御冥福をお祈りします。」
・ぼくのひいおじいちゃんの松茸の思い出
しかしぼくのひいおじいちゃんの文章はこれでは終わらず、なんとその後に松茸の話を記している。ちなみにこの終戦について詳しく書かれていた章の題名は「松茸」であった。ぼくならばこの文章に「終戦」とでも題名をつけそうなものであるが、ぼくのひいおじいちゃんにとって終戦という衝撃は、松茸の思い出よりも小さなものだったのだろうか。松茸の文章は以下の通りである。
「さて私たちが平野へ疎開して間もない頃だった。細野さんの松茸山の入山権を五百円で買わないかと相談を持ちかけられ、森本政一さんと盛蔵兄さん、私の三人で権利を買ったが、秋になって政一さんの案内で山へ行って驚いた。びっくりするほど沢山松茸が生えている。私は声も出ないほどであった。大きな籠に一杯取って持ち帰り、その日のうちに二見の駅から大阪へ出掛けた。阿倍野のあたりは戦火に遭わなかったので大勢の人で賑わっていた。
川本の兄の店先を借りて松茸を並べるとすぐお客が一列に並び、十分もたたぬうちに売り切れてしまった。政一さんと私は久しぶりに闇市で好きなものを食べたが、闇市では金さえ出せば何でも売っていた。
四、五日してまた山へ行った。丁度雨上がりの後だったので、この日もたくさん取って早速大阪へ持っていき新円にかえた。帰りには二人でストリップを見物して、久しぶりに楽しく帰宅した。」