誰もが贅沢な暮らしを望んでいるというのは本当か? 〜武士道の経済観念〜

 

贅沢するよりも節約する方が楽しい!

誰もが贅沢な暮らしを望んでいるというのは本当か? 〜武士道の経済観念〜

・給料が増えても贅沢を求めなかった
・日々の節約の先にある実現の香りを夢見る
・武士道における経済観念
・経済的知識を持って生きることの卑しさ

・給料が増えても贅沢を求めなかった

ぼくは今までの人生のうち、3年間労働していた。1年目、2年目の給料はさほど変わらなかったが、3年目になると給料が急に2倍になった。

給料が急に2倍にアップすれば、通常だったら2倍いい部屋に住むとか、2倍いい服を着るとか、2倍いい食事を食べるとか、とにかく自然と2倍贅沢な暮らしをしそうなものである。しかし実際に給料が2倍になるという出来事がわが身に降り注ぐと、意外と全くそのような野望は起こらなかった。給料が2倍になっても、全く変わることなく、そのままの生活を続け残りは全て貯金へと回った。

思えば1年目、2年目の給料で、普通に日常生活を営んでいくのに十分だったのだ。その時代でも給料の40パーセントを貯金に回していた。労働を開始してから、自分の生きる尊い時間を人間の集団に捧げて得たお金という不思議な存在は、まるで自分の生きる時間の分身であると思ってしまい、それゆえにくだらないことや虚栄、無駄なことにお金を使う気には全くなれなかったのだ。この生命に必要なものには惜しみなくお金を使い、また自分が情熱を持って好きだと思えるものに対するものは必要でなくても贅沢品として迷いなく購入していた。それで残ったのは大抵給料の40パーセントだったので、それを貯金していたわけだ。

ぼくが必要なものを惜しみなく購入して、さらに自分の情熱に沿った贅沢を実行していれば、自分にとって1ヶ月に必要なお金は15万くらいだとわかった。それ以上のお金は、緊急時以外は自分には必要ないのだということを知った。それゆえに、給料が2倍になったときも、生きるためにこんなに必要ないのにと少しばかり疎ましく思っていた。

 

 

・日々の節約の先にある実現の香りを夢見る

日本には「ハレとケ」という概念があるという。普段の日常生活では質素倹約して慎ましやかに生活し、お金の必要な大切な儀式などが催される時には、普段から蓄えていた富を惜しみなく潔く使ってしまおうという考え方だ。ぼくにもこのような民族的な習性がいつの間にか染み付いていたのか、日常生活では金銭に余裕があっても過剰な贅沢をしたいとは全く思わなかった。

ぼくには旅に出たいという情熱があったので、もしも旅をする日々がぼくにとってのハレの日であるとするならば、日常生活はそのハレの日の準備をするための節約のケの日々であるのかもしれなかった。しかしそのようなことを意識せずとも、ぼくの生命は慎ましやかな生活を自然と望んでいた。

ぼくは質素な生活をすることが好きらしい。外食もほとんどせず、自分で作った料理が一番美味しいように感じる。職場には毎日お弁当を持って行きつつ労働していた。日常生活で質素に倹約しながら生きることは楽しい。自分にとって無駄なものを退け必要なものだけを選び取りながら生きることは心満たされる行為だった。

節約というものは不思議なもので10000円節約できたときよりも、スーパーマーケットで100円や10円を節約できた時の方がより嬉しいのはなぜだろうか。そんな風にして必要なものだけを選び取る合理的な生活は続いた。しかしせっかく給料が2倍に増えたから、ちょっとくらい生活レベルをあげてもいいものを、どうしてそのように願う心が自分の中から湧き上がってこないのか不思議ではあった。

贅沢であることよりもむしろ自分を貧しい存在に見立てて質素な生活をし、それが自分の心を満たすというのも面白い心の動きだ。なぜか贅沢できる存在よりも貧しい存在に憧れ、そのような位置に自分自身を置かなければならないと誰から教えられることもなく信じ込み、それを実践していた。

 

 

・武士道における経済観念

そんな時、新渡戸稲造の「武士道」という本を読み、日本人の古来よりの精神を学ぼうと心がけていた。その「武士道」の中に、さむらいの経済観念についての記述を見つけて、妙に納得してしまった。そこにはこのように書かれていた。

 

”さむらいは金銭そのものを嫌い、儲けることや貯めることを軽蔑する。さむらいにとって金銭は不浄なものだった。堕落した世の中を表現する決まり文句も「文民は金銭を愛し、武士は命を惜しむ」というものであった。金銭や命を出し惜しめば非難され、気前よく差し出せば賞賛された。よく言われる教訓にも「何より金銭にとらわれてはならない。富めば知恵が出なくなる」というのがあるほどだ。したがってさむらいの子供は、経済とは全く無縁のままで育てられた。経済のことを口にするのははしたないこととされ、貨幣の価値を知らないことはむしろ育ちがいい証拠だとされた。

数の知識は、軍勢を集めたり、恩賞や知行の分配をするのに不可欠ではあったが、金勘定は身分の低い者の手に委ねられた。多くの藩において、財政は下級武士や僧侶が担当した。道理をわきまえた武士ならば、金がなければ軍資金すら賄えないことをよく知っていたが、それでも金銭を大事にするのを美德だとするまでには至らなかった。

武士道が節約を旨としていたのは事実であるが、それは経済的な理由からではなく、節度ある生活を送るためであった。贅沢は人間の最大の敵だと考えられ、さむらいは極度に質素な生活を送ることが求められた。そのため多くの藩では贅沢を禁止する法律が出された。

歴史書を読むと、古代ローマでは、税金の取り立てなど、金銭を扱う役人が騎士に抜擢されたりしている。ローマ帝国が財務担当者の役割や、金銭そのものの重要性を大いに評価していたことがわかる。そのことが、ローマ人が贅沢で強欲だったということと大いに関係しているであろうことは想像がつく。武士道ではそうではなかった。財務的な知識は低く評価され、道徳的、知的な素質より下に見られていた。

したがって武士道は、金銭や金銭欲を努めて無視していたため、金を原因とする様々な害毒に犯されることがなかった。これが我が国の役人が長いこと腐敗から逃れられた大きな理由である。”

 

・経済的知識を持って生きることの卑しさ

この文章を読んで自分の精神構造の有様を言われているような気がして、深く共感した。自分の中には、武士道的な経済観念が知らぬ間に時代を超えて、目に見えないところで地下水脈のようにして引き継がれてきたのだろうか。

以前より経済的な物事に詳しい人をなんだか立派だとは思えなかった。経済の勉強を一生懸命勉強してきたのだから尊敬すべき人物のはずなのに、どうしてその人を卑しいと感じてしまうのか不思議でならなかった。経済的な物事に詳しい人は大抵合理的で、自分にとって得になるか損になるか常に全てにおいて勘定しているところが不気味だからだろうか。何が得で何が損か、何が与えられ何が奪われるか、人生や生命をまるで投資や取引のように考えて自分の利益だけを考えて与えることを放棄しているような精神には、人生のうちであまり近づきたくはない。

与えられる人間に価値があるというのは本当か?

そのような気配も、武士道の中に生きていた経済観念が見えない道筋を辿ってこの精神に伝わってきているのだとしたら、なんとも腑に落ちる話である。

 

 

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