男は服を脱いで裸になりたがる生き物だというのは本当か?

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男という生き物は、すぐに裸になりたがる!

男は服を脱いで裸になりたがる生き物だというのは本当か?

・クレヨンしんちゃんの「ゾウさん」や「ケツだけ星人」に見る日本の独自性と普遍性
・男が裸になりたがる生き物だというのは本当か?
・男性が裸体になる伝統的な感性や意味
・日本各地の男根崇拝を目撃し、日本で「ゾウさん」が生まれた理由を知った
・日本の男根崇拝/生殖器崇拝の記事一覧
・日本の山の神が男根を好きだと言われる理由
・男性が裸になりたがる理由

・クレヨンしんちゃんの「ゾウさん」や「ケツだけ星人」に見る日本の独自性と普遍性

ぼくが世界一周の旅をしていて感じたことは、日本のアニメは世界でも大人気だということだ。ぼくはアニメにものすごく詳しいというわけでもないので、外国人に日本の面白いアニメについて教えてもらったりして、おいおいなんだか立場が逆だろうと思ってしまうこともしばしばだった。

世界中で大人気だと感じられた日本のアニメのひとつには、クレヨンしんちゃんが挙げられる。ぼくの中でクレヨンしんちゃんの代表的なギャグといえば、生殖器を丸出しにしてゆるく踊る「ゾウさん」やお尻を丸出しにして素早く動き回る「ケツだけ星人」だ。どちらもかなり印象的で、一度見たらもはや忘れることができないほどのインパクトがある。

こんな「ゾウさん」や「ケツだけ星人」のような丸出しの下ネタのギャグって、他の国でも発明されているのだろうか。ぼくが思うにこんなすごく変なギャグを生み出しているのって、日本だけではないだろうか。西洋の国では、トトロの映画でお父さんと娘が一緒にお風呂に入るシーンすら問題視されるほど裸というものに敏感なので、おそらく「ゾウさん」や「ケツだけ星人」なんてとんでもない発想だと思っているのではないだろうか。

しかしどんなに規制されようとも、生殖器やお尻などの下ネタが面白くておかしいというのは人類に底通した感覚なので、「ゾウさん」や「ケツだけ星人」のギャグは日本から飛び出し国境を超越して、世界中で普遍的に親しまれていることだろう。ぼくは世界中を旅していて日本人って控えめで恥ずかしがり屋で大人しい性格だという印象を持っていたので、こんなあけっぴろげで丸出しのギャグを控えめな日本人が発明したというのがとても意外でなんだか不思議な感じがした。

ぼくがクレヨンしんちゃんで印象的だったのは、みさえの友達のおケイおばさんとその旦那の悟史さんがしんのすけについて会話している際に、悟史さんがおケイおばさんに向かって「男っていうのは大なり小なりあんなものさ」と言い放ち、「ケツだけ星人」の真似をするというシーンだった。本当に男というものは大なり小なりしんのすけのようなもので、「ゾウさん」や「ケツだけ星人」みたいなことをしたり裸になって丸出しにしたいという衝動を抱えているのだろうか。

 

 

・男が裸になりたがる生き物だというのは本当か?

確かに男が裸になるというアニメはクレヨンしんちゃんの他にも多い。最近では動画配信サービスで「おそ松さん」というギャグアニメを見ているが、主人公は幼稚園児のしんのすけとは異なり成人した大人の6つ子だが、事あるごとにテンションが上がると全裸になってはしゃいだり騒いだりしている。

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またアニメに限らず日本の文化を見ていても、相撲ではふくよかな男たちがほぼ裸になっていたり、祭で男たちが裸になっていたり、男の芸人が裸であることで笑いをとっていたり、飲み会で裸踊りをするのは男性だったりして、男子と裸の関係は根深いものを感じる。

これが決して女性ではないところが、重要なポイントだ。女性が公然の場で裸になるなんて、普通の感覚ではとても考えられない。それは女性の裸体は隠されるべきであり、男性の裸体ならばまぁさらけ出してもいいかという世の中の常識的な通念が確かにあるからだ。しかし同じ人間という生き物の裸体であるにも関わらず、こんなにも男女で違いがあるのは不思議なことだ。これはおそらく論理や政治的主張ではたどり着けない、野生的な直感に基づいているのだろう。

 

・男性が裸体になる伝統的な感性や意味

クレヨンしんちゃんやおそ松さん、現実世界の男性が裸体になるということには、どのような意味合いが込められているだろうか。それにはヒステリックに常識的に「裸体=露出、変態」と決めつけられる意味以上の文化的、精神的な側面があることは明白である。そのような単純な否定的意味合いしかないのなら、このような豊かな文化の深部に組み込まれているはずはないからだ。

クレヨンしんちゃんの「ゾウさん」や「ケツだけ星人」、おそ松さんが全裸になっている様子を見ていると、開放的な雰囲気や自由奔放な精神を感じ取ることができる。それは本来隠すべきものが露出してしまったというような女性の裸体のような過ちの感覚ではなく、本来さらけ出すと決まっていたものが自然な流れでさらけ出されたような違和感のない感覚だ。動物の中で人間だけは服を着なければならないと、生物全体からしてみれば異常な着衣制度を押し付けられて人は精神を抑圧されているが、人間が他の動物と同等になることを許されるような開放感、本当は裸体のまま生きたいのに抑圧された精神が一気に解放されるような清々しさを、その中に見出すことができる。

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また現実世界の祭りや行事で男性が裸になるという行為の中には、一種の潔さや威勢の良さを感じることができる。何もかもを脱ぎ捨てて、あらゆる所有を喪失して、無一物となって世界へと対峙するときの精神の清らかさと美しさが、裸体になるという行為には組み込まれているのではないだろか。自分の全身全霊をかけて、自分の肉体のあらゆる部分を解き放って世界へ向き合うという行為には、ある種の宗教的な感性、魂の浄化のような感覚が含まれているような気がしてならない。

最近になって外国から輸入された「裸=野蛮」の浅はかな感性ではなく、日本人のぼくらは潜在的に男性が裸になるという行動に、古くからの伝統的な自由の精神、開放的な感覚、野生へと立ち帰る憧れ、無所有への回帰、肉体の全てで世界へと向き合う潔さ、根深い宗教的な魂の浄化作用を感じ取るからこそ、アニメから祭に至るまで多様な男性の裸体文化を築き上げてきたのではないだろうか。

 

・日本各地の男根崇拝を目撃し、日本で「ゾウさん」が生まれた理由を知った

世界一周の旅をコロナの影響で中断して、日本一周の旅として日本の深層まで触れようと努力したときに、ぼくが気づいたことは日本ではめちゃくちゃ男根が崇拝されているということだ!日本全国各地で、ぼくは古来より伝わる伝統的な男根崇拝、生殖器崇拝の姿を目撃した。女性生殖器が祀られてる場所もあったが、それよりもはるかに多く圧倒的に男根の崇拝が盛んだという印象を受けた。ぼくは男根崇拝の姿を今まで見たことがなかったので、日本中でこんなにも男根が信仰されているなんて意外だったし驚愕した!(男根崇拝の旅の記事はこちら!)

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日本の男根信仰の深い理解とともに、ぼくはなぜ日本でクレヨンしんちゃんの「ゾウさん」や「ケツだけ星人」が発明されたのか、はっきりとわかったような気がした。日本人は控えめで、大人しく、恥ずかしがり屋なのにどうしてあんなに大胆で、開放的で、自由奔放なギャグを発明する運命にあったのだろうとずっと不思議だったのだ。しかし祖国の日本をよく観察してみると、そこには古代から伝統的に信仰されていたまさに「ゾウさん」の姿であふれていた。こんなにも生殖器や男根周辺の部位に興味を持ち、いくつもの巨大な男根像を作り上げ、その歴史を通して密かにずっと深く崇拝してきた日本人という民族が、クレヨンしんちゃんというアニメにおいて「ゾウさん」や「ケツだけ星人」のギャグを作り出したということは、どう考えても偶然ではなく必然だったと感じざるを得ない。

ぼくたちは日本独自に残されたこの自由な男性の裸体の文化を、「裸体=野蛮=悪」などという外国から輸入された観念に愚かしく惑わされることなく、裸体文化の本来の感性や意味や価値を思い出し、世界のどこにもないかけがえのない表現を未来へと受け継いでいくことが、日本人としてのふさわしい姿ではないだろうか。

 

 

・日本の男根崇拝/生殖器崇拝の記事一覧

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・日本の山の神が男根を好きだと言われる理由

また日本の山の神様の伝説には興味深いものがある。日本の山の神様は醜い女性で男性の裸体や男根が大好きなので、山でなくし物をして困った時などには、自らの男根を丸出しにして一周して山の神様に見せれば、なくし物を返してくれるというのだった。そのような伝説は日本全国で共通して残っているらしい。

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しかしぼくにはこの伝説にものすごく疑問を抱いていた。そもそも山の神様なんて誰も見たことがないのに、どうしてブスだとわかるのだろう。ましてや男根が好きだなどと見たこともない神様の好みなんてわかるわけがないと感じたのだ。さらにいえばどのようにして日本の民族がそのような不思議な伝説を作り上げたのか、興味があったのだ。

しかしぼくが日本一周の旅を継いで、日本全国の様々な露天風呂や温泉に入っているうちにその答えが見つかったような気がした。男性というものはやはり、裸体になるとクレヨンしんちゃんやおそ松さんのように、自らの裸体を丸出しにしてさらけ出し、大自然へと対峙したがるのだ。これは露天風呂などで男性を観察してみるとわかることだ。彼らは自分が裸だからと恥ずかしがることも全くなく、むしろ丸出しにしてさらけ出して、露天風呂から外の世界へと裸体を突き出し、山や海に向かって自らの裸体を対面させるような姿勢を取る。

このような裸体の潔さと開放感は、やはり男性特有のものなのだろうか。ぼくは女湯に入ったことがないので女湯の様子は全くわからないが、女性もこんな風に自らの裸体を突き出して大自然と対峙する人もいるのだろうか。なんだか想像しにくいしそんな人いなさそうな気がするが、いかんせん自分で見たわけではないので断言はできない。ぼくが断言できるのは、男性はしんのすけやおそ松さんのように大自然へと裸体を解放させ、それによって心が満たされる性質を持っているということだけだ。

このように露天風呂で裸体を大自然へと突き出す男性たちを見ていると、日本の山の神が女性で男根が好きだという伝説の理由が何となくわかる気がした。それは男性が自らの男根を山という大自然へとさらけ出したいという野生的で本能的で直感的で自然な思いが、「山の神=男根が好き」という物語へと結実するという形で表現されているのではないかということだった。山の神に会えるわけでもないのに、彼女が男根を好きだなんて決めつけ難い。知ることができるのは男性という自分自身が裸体や男根を大自然へとさらけ出したいという、自分の中の野生的な衝動だけである。

 

 

・男性が裸になりたがる理由

昔動物の番組を見ていた際に、お猿さんのオスたちが自分が生殖可能だとアピールするために、その生殖器を大自然に思いっきりさらしてメスや世界へと見せつけているという野生の風景が映し出されていた。もしかしたら人間の男性もそのような野生の衝動を持っているにもかかわらず、服を着るという文化のせいでそれが達成されることは決してないから、仕方なくその野生の衝動を男性の裸体という文化に組み込んで、その文化を通してのみ世界へ向けて野生の衝動をぶつけられるようにうまく調整したのではないだろうか。ぼくは露天風呂で自らの裸体を大自然へと突き出す多くの男性を見ていると、あのオスのお猿さんの風景を思い出すのだった。

 

 

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