どんな時も届いてくる“未来の故郷”から。
中島みゆきが麦の唄で辿り着く「未来の故郷」という境地!故郷を過去にしか見出せないのは本当か?
・ぼくの好きな「麦の唄」の一節
・「未来の故郷」とは
・「異国」に見る故郷の喪失
・さまよいびと
・故郷をどこへ求めるか
・ぼくの好きな「麦の唄」の一節
中島みゆきの「麦の唄」には次のような一節がある。
“泥に伏せるときにも 歌は聞こえ続ける
そこを越えておいで くじけないでおいで
どんなときも届いてくる 未来の故郷から”
ぼくはこの「未来の故郷」という言葉を聞くたびに、ひどく感動し泣きそうになる。
・「未来の故郷」とは
そもそも「未来の故郷」なんて言葉をこの人生で初めて聞いた。おそらく彼女の発明した言葉だろう。未来に故郷なんてあるのだろうか。
普通ならば、故郷というものは必ず過去にあるものだ。生まれた国、幼い頃に過ごした国、育った国を故郷と呼ぶのが通常の習わしだろう。それに対して、彼女は故郷を未来に見出す。それはまるで、この世の常識というものにとらわれない心の自由さと、この世の常識を翻さなければならないという静かな使命感を表しているようでもある。もしくは未来という誰も見つけきれなかった場所に、故郷というものを見出してしまった彼女の時空を超越する感受性の高さと精神的な壮大さを伺わせる。
しかし、「麦の唄」で未来に故郷を見つける以前に、彼女は故郷に関して次のような歌を歌っていた。
・「異国」に見る故郷の喪失
“止められながらも去る街ならば
故郷(ふるさと)と呼ばせてもくれるだろう
ふり切ることを尊びながら
旅を誘(いざな)う祭りが聞こえる
二度と来るなと唾を吐く街
わたしがそこで生きてたことさえ
覚えもないねと街が言うなら
今際の際にもそこは「異国」だ”
“街はわたしを死んでも呼ばない
わたしは故郷の話に入れない
くにはどこかと聞かれる度に
まだありませんとうつむく”
“百年してもわたしは死ねない
わたしを埋める場所などないから
百億粒の灰になってもわたし
帰り支度をし続ける”
この「異国」という曲は、1980年発売の彼女の7枚目のオリジナルアルバム「生きていてもいいですか」の最後に収録されているアルバム曲である。「生きていてもいいですか」というアルバムのタイトルだけでもかなりのインパクトを与えられるが、そのジャケット写真も驚愕ものである。真っ暗な背景の中から幽霊が浮かび上がるようにして一筋「生きていてもいいですか」と、まるで上から下へと流れ落ちるみたいに文字が書かれている。く、暗い、、、。そしてそのまさに第一曲目が「うらみ・ます」という泣きながら歌う女のフラれ歌なのだからたまらない。ジャケット写真が真っ暗なのも頷ける。しかしこのアルバムはそれでは終わらない。最後の2曲がまた衝撃的なのだ。
「異国」という歌は、このアルバム「生きていてもいいですか」の最後の一曲である。故郷を持たない、持ちたいのに持てない女の歌だ。いくらさがしてもさがしても、故郷を見出すことができずに魂が彷徨っている。あるいはこの女は既に死んでしまったのかもしれない。生涯故郷を持たなかった女は、死んでしまおうが、百億粒の灰になろうが、それでもなお故郷をさがし求め続け、成仏できずにこの世を彷徨っている。
・さまよいびと
人間にとって、故郷とは意外なほど重要な要素ではないかとぼくは考える。故郷とは、その人のすべてであると言っても過言ではないのではないだろうか。
その人間性が構築されるにおいて、幼少期ほど影響力の極めて強い時期はないだろう。その人が生涯どのような人間性を持ち合わせながら生きていくかは、幼少期という根幹に付随していく。大人になってからどんなに変わろうと思っても、どんなに外界から刺激を与えられても、幼少期までに固定された性質は、なかなか揺るがされるものではない。その幼少期を包み込むように機能する、故郷という風土環境は、人間にとって極めて重要であるのは言うまでもないことだろう。
中島みゆき自身は父親の仕事の都合か、幼少期に転校を繰り返していたようである。北海道内でも転校したし、東北地方へ行ったこともあるらしい。いずれにしても、幼少期に各地を彷徨っていた彼女は、故郷という観念を形成することなしに大人になっていったのかもしれない。幼少期にはっきりとした故郷を発見できずに大人になることは、少なからずその精神構造に影響を与えるではあるまいか。
・故郷をどこへ求めるか
「異国」では、どんなにさがし求めても故郷を発見できずに魂の彷徨っている女が主人公であった。それが彼女自身のことであるかどうかは定かではないが、1980年という昔に彼女がそのような内容の歌を彼女自身の精神から紡ぎ出し作り上げたことは事実である。そして時は経ち2014年になって、同じく彼女の精神が紡ぎ出した美しい歌「麦の唄」の中では、未来の中に故郷を見出してしまった。
どんなに過去へ遡ってさがし求めても、故郷を見つけられずに魂の彷徨っていた女は、歌い続けたその後で、なんと未来の中に故郷を見出したのだ。このような物語は感動以外の何ものでもあるまい。
「異国」の中の女のように、魂の彷徨っている人々はこの世に多い。彼女のように故郷という根幹を持つことをゆるされずに彷徨っている場合もあれば、たとえ故郷というものを持ちながらでも、必ず幸福になれない運命を生まれた時から背負うことで、魂の彷徨っている人々もいるだろう。彼らは常にさがし求め、常に切望し、常に渇いている。そしてやがて何をさがしているのかも忘れ去り、けれどさがし求めていることだけを魂は覚え続け、生きている間、死んでもなおずっと引き続き、何かわからないものを求め続け、彷徨い続けるのかもしれない。
そのようなすべての魂たちへ、彼女の歌は、そして生き様は語りかける。たとえ過去や現在に確かな根幹が見つけられなくても大丈夫だと。ないものはないのだ。どんなにさがし求めても、自分自身を映し出す鏡は見つけられない。その鏡面を未来に求めてもゆるされるのだと、彼女の歌は優しく教えてくれる。
過去や現在にしがみつかなくてもいい。見つからないからと嘆かなくていい。この魂を旅立たせ、時空を超越し、国を超越し、まだ見果てぬ透明な未来の中に、自分自身を映し出す美しい故郷を見出せばいいのだ。