自分を嫌いな人間がこの世にいるというのは本当か? 〜心の守護神〜

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

自分を嫌いな人間がこの世にいるというのは本当か? 〜心の守護神〜

・自分を嫌いな人間がこの世にいるというのは本当か?
・誰もが自分自身を惜しみなく愛している
・心の守護神
・心の表層の否定と、心の根源にある絶対的な自己愛の炎

・自分を嫌いな人間がこの世にいるというのは本当か?

この世界を生きていると「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」というような発言をする人にたまに巡り会う。しかしそのような人に出くわすたびに、ぼくは果たしてそれって本当なのだろうかと訝しく思ってしまう。自分のことが嫌いなのに、本当にこの世で生きることが可能なのだろうか。

 

 

・誰もが自分自身を惜しみなく愛している

自分のことが世界で一番好き、自分がこの世で一番可愛い、自分がこの世で最も正しいと思いながら生きるということは、病むことなく人生という大海を渡っていくための最低条件なのではないだろうか。もちろん大人たちは誰だって「自分が大好き」「自分が正しい」などと面と向かって発言する人はいない。そんなことを言い放ってしまえば、人間社会で異常者扱いされるからだ。

しかし本当は、誰もが心の奥底で「自分のことが大好き」「自分が一番正しい」と思い込んでいる。そのような純粋で絶対的な自己愛は、自分という存在を病むことなくこの世でしっかりと立たせるために必要不可欠だからだ。どんなに謙遜し、へりくだったふるまいをし、自分なんてとても愛されるべき人間ではありませんというような顔をして生きているような人間でも、化けの皮を剥がせばこの世で最も自分自身を愛しているということはよくある。逆にいえばそのような図々しく、厚かましく、純粋に自分だけを愛せるような人間だけが、この世で生き残ることが可能になるとも言えるだろう。

ぼくが思うのは、「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」と本当に心の底から思っているのなら、その人はすぐに精神を病み、生きる感覚を見失い、虚無感に襲われて自殺をし、もうとっくにこの世から消え去っているのではないかということだ。「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」などと言い放ちながらもこの世に生きているということは、口先では「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」などと言い放っているけれど、心の根源ではきちんと図々しく、無遠慮で、絶対的な自己愛を育て上げるのに成功しているのではないだろうか。

この世に生きている限り、人間というものは自分を最も愛し、自分を一番に可愛がり、誰にも妨げられない自己愛を形成しているはずだ。そのような愚直で、厚かましく、図々しい性格の人間だけが、他人を押し除けてでも自分を生かすことに成功し、この世で生き残ることができるのではないだろうか。本当に純粋で優しく、心が綺麗で、自分のことなんて愛せないというような遠慮がちな人間が、この荒々しい競争社会を生き残れるはずがない。この世界に生き残っている人間は多かれ少なかれ、他人の幸福を犠牲にしたり踏みにじってでも、自分を愛し自分の幸福を追い求められるという図々しさがあるからこそ、未だに命を保ち続けられているに違いない。

 

 

・心の守護神

だからぼくは「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」などと発言する人のことを信じられない。むしろなんて白々しい人間像なのだろうと軽蔑してしまうだろう。もちろんその人は本当に、自分が「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」と思い込んでしまっているのだろうが、それは心の表層がそのように思い込んでしまっているだけで、その人の心の根源は違う。

本当に心の根源からその人が「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」と思っているのなら、その人は自分自身の生命の価値を見出せずにとっくに自殺してしまっていることだろう。その人が「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」などと思い込みながらもこの世で生き残っているということは、心の表層は「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」という思い込みに洗脳されながらも、心の根源ではその人の絶対的な自己愛が、その人の生命の価値を必死に支え続けているからではないだろうか。

 

 

・心の表層の否定と、心の根源にある絶対的な自己愛の炎

心の表層では「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」だと洗脳されているのに、心の根源では「自分のことが大好き」「自分が一番正しい」という絶対的な自己愛が確立しているという現象はパラドキシカルでアンバランスだ。しかしそのような矛盾の風景こそ、人間が生きていく上での情緒となるのだろう。

自分は不細工だ、自分は出来が悪い、自分は能力が低いなどという、相対的な価値観や幸福感に惑わされ、「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」と思い込んでしまうことは、この相対的な社会を生きていく上で仕方のないことかもしれない。しかしどんなに心の表層が相対の穢れによって冒されようと、心の根源が冒されない限りは何の問題もないだろう。心の表層では自分を否定するようになってしまっても、心の根源では幼い頃から培われた絶対的な自己愛が守護神のように自分を肯定的に護ってくれ、どんなに愚かしい表面の相対的な幻想も価値観も、ことごとく焼き尽くすようにして滅ぼしてくれるだろう。ぼくたちの生命は絶対的な自己愛の炎によって常に護られ、その勢いが衰えない限りは決して穢らわしい人の世の洗脳に打ち負かされることはない。

しかしそうは言っても生きるたびに心の表層に植え付けられていく「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」という呪いの洗脳が、絶対的な自己愛が自分自身を護る際の僅かながらの妨げになっているという事実も否定できないだろう。本当ならば「自分のことが好きではない」「自分のことを嫌いだ」などという思い込みは偽物であることをしっかりと見抜き、ぼくたちを守護してくれている絶対的な自己愛の炎に少しでも負担をかけずに、むしろ絶対的な自己愛の炎を惜しみなく崇拝することでその熱量を育て上げ、真理を見出さめるときの鍵にするのがよいだろう。

自分を嫌いな人なんてこの世にはいない。そしてぼくたちは常に絶対的な自己愛に大切に護られているのだから、おそれることなく自分自身を愛し、愛すべき自分自身の直感が指し示す方向へとまっすぐに突き進むべきである。ぼくは絶対的な自己愛の炎を信じている。それは裏切ることなく、ぼくをふさわしい国へと導いてくれることを知っている。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

関連記事