お遍路「同行二人」の本当の意味とは!孤独に人生を歩むのが悲しいことだというのは本当か?

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たとえ孤独でも、ぼくたちは共に歩んでいる。

お遍路「同行二人」の本当の意味とは!孤独に人生を歩むのが悲しいことだというのは本当か?

・孤独に人生を歩むのが悲しいことだというのは本当か?
・一遍上人の言葉
・弘法大師(お大師さま、空海)の言葉
・「同行二人」の意味1:ひとりの場合
・「同行二人」の意味2:ふたり以上の場合
・究極的な孤独の先でぼくたちはひとつにつながる

・孤独に人生を歩むのが悲しいことだというのは本当か?

人間というものはとかくつがいになりたがる。虚しい心のさみしさを埋め合わせるように、あるいは強力な性欲に強いられるように、または将来や老後がどうなるかの不安から、もしくは周囲からの同調圧力やしきたりの空気によって、それとも不思議な縁に導かれて、人は2人になりたがるし、それを人間社会は正しく適切なことだと見なしている。それは人間がつがいになり性的に結び付けられることによって、子孫を繁栄させることが人間社会の大いなる利益につながるからに他ならない。

しかし人間集団にとって都合がよく大いなる利益をもたらすものでも、ぼくたち人間個人にとってそれは幸福をもたらすものであるとは限らない。もちろんつがいとなり、強力な力に支配され性的に結びつき、子孫を生み出すことで2人ではなくなり次第に3人、4人と家族が増えて行って、そのようなささやかな人間集団の中で暮らすことは、孤独に暮らすことよりもはるかに恵まれた幸福感に満たされているに違いないと誰もが疑わない。つがいにならない孤独な者たちは可哀想だと見下され、比較によってしか幸福を見出せない迷える心たちの格好の餌食となり、たとえひとりで幸福に生きている命であっても、他者から悲しいくせにとレッテルを貼られるかもしれない。

しかし究極的に考えれば人間は誰もがこの世にたったひとりで生まれついたように、ぼくたちは誰もがたったひとりでこの世を去って行くのだ。どんなに結婚式で永遠を誓おうとも、いつまでも今まで通り幸せに暮らそうと約束しても、そのような約束は必ず破棄される定めにある。なぜならどんなにこの人生で西洋人の真似事をして永遠の愛を誓い合おうとも、所詮この一生限りのことであり、この一生が終わってしまえば別れ合うことが確実に決まっており、永遠どころか100年以下に引きちぎられる縁である。たかが100年すら続かないつがいの縁なのに、永遠などという言葉を用いていいものだろうか。

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ぼくたちはひとりでこの世にたどり着き、ひとりでこの世を去って行く。何も持たずに生まれついて、何も持たずに去って行く。それならばどんなにこの一生で結びつこうとも、どんなにこの一生で縁を紡ごうとも、結局究極的にはたったひとりで生きているのと同様であると言えるのかもしれない。

 

 

・一遍上人の言葉

「生ぜしもひとりなり 死するもひとりなり、さすれば人と共に住するもひとりなり」

 

・弘法大師(お大師さま、空海)の言葉

「一身独り生歿す。電影是れ無常なり」

 

・「同行二人」の意味1:ひとりの場合

日本の伝統的な巡礼の道、四国のお遍路には弘法大師にまつわる興味深い言葉がある。「同行二人」という言葉だ。

どういう意味かといえば、お遍路をしているときには常に絶対的にふたりっきりだということだ。この世で巡り会った誰かとふたりきりという意味では決してない。お遍路の旅は、いつも弘法大師とふたりっきりで巡礼しているのだという意味だ。

これはひとりっきりでお遍路をしている人にとっては、なんだか勇気や希望をもらえるあたたかな言葉のように感じられる。たったひとりでさみしい気持ちをこらえながら四国を巡礼していたとしても、本当はあなたは孤独ではなくいつだってお大師様がそばにいて、あなたを見守りながら一緒に巡礼してくれているのですよという慈悲深い仏教の言葉が心に染み渡ってくるかのようだ。これだけ聞くと「同行二人」は人情溢れる希望に満たされた言葉に聞こえる。

 

 

・「同行二人」の意味2:ふたり以上の場合

しかし「同行二人」の意味はそれだけではない。

たとえ誰か友達や、家族や、恋人とふたり以上でお遍路を巡礼していたとしても、その場合でもあなたはお大師さまとふたりっきりで巡礼しているのだと説いているのだ。すなわちこの世でお遍路を共にしている者、恋人や、結婚相手や、仲のいい友達や、子供などは、あなたにとっていないも同然の存在だということである。

お遍路において本当に重要なことは、この浮世で肉体を共にしながら歩く相棒のことを考えたり思いやることではなく、精神を清らかに孤独に保ちながら、強烈な孤独感のそばにお大師様だけを引き連れて歩みを進めて行くことなのだ。

ぼくたちはこの世で、他人を思いやることや誠意をもって対応することが大切だと教えられる。しかし仏教的に究極的に考えれば、この世で肉体を共にしている者など夢まぼろしの偽物の幻想に過ぎないのかもしれない。そんなものに執拗に構っている暇があるんだったら、いっそすっぱりと潔く精神を孤独に保って、悟りへの道を歩めとお遍路は教えているのかもしれない。人間が集団や群れとして悟りを開くなんてありえない。悟りを開くときにはいつでも、人は孤独である。

 

 

・究極的な孤独の先でぼくたちはひとつにつながる

この「同行二人」は、お遍路に限らず人生という巡礼の道にも当てはまるのではないかとぼくの心の中では感じられた。どんなに仲間と楽しい時を過ごしていたとしても、どんなに愛する人と結ばれている時でも、心の中に清らかな孤独を忘れず、その孤独にたったひとりを触れさせるべきである。

究極的な孤独を共有するのは弘法大師であるとは限らない。それはお遍路における絶対的存在の象徴であり、結局は空海でなくても、神様や、仏様や、大いなる魂や、大自然や、宇宙でもいいのだろう。思い描く究極的な孤独の共有相手は、それぞれの人の宗教観や死生観やものの見方に左右されるのではないだろうか。

もしもそのようにして誰もが究極的な孤独を心の中に持ち合わせれば、矛盾するようにぼくたち人間は決して孤独ではなくなる。それは誰もが究極的で清らかな孤独の色彩を心の中に描くことによって、「孤独」を大切に抱く者同士としてぼくたちはその思いを知らず知らずのうちに共有することができ、矛盾を引き起こすように究極的な孤独によって孤独とは正反対の究極的な共有が出現する。孤独と共有は輪廻転生を描き、ぼくたちはもうひとりじゃない。

 

 

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