正しさは残酷な凶器となる!絶対的な正しさは世界によい影響をもたらすというのは本当か?

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正しさのバリアに安全に守られて、人を傷つけるものたちへ。

正しさは残酷な凶器となる!絶対的な正しさは世界によい影響をもたらすというのは本当か?

・固定化された絶対的な悪の言葉たち
・絶対的な悪や正義の言葉は人の心を支配しやすい
・思考停止した絶対的な言葉は人に安全なバリアを与えてくれる
・正しさに守られる卑怯な人生
・思考停止した絶対的な言葉について思考した記事一覧

・固定化された絶対的な悪の言葉たち

この世には、絶対的に悪だという言葉が存在する。その悪の言葉は、議論されるまでもなく、思考されることもなく、その言葉が人間の口から出た瞬間に即座に「悪だ」と判断されてしまう言葉である。

「差別」「いじめ」「セクハラ」「パワハラ」「人殺し」「盗み」「自殺」「死」「暴力」「逆らう」「地球温暖化」「オゾン層の破壊」「環境破壊」など、この世にはその言葉が出てきた途端に誰もがピコンと自動的に「悪だ」と見なす言葉であふれている。

またその逆にその言葉は有無を言わさず正しいのだという言葉も存在する。「平等」「平和」「愛」「自粛」「常識」「共生」「国際的」「多様性」「生きる」などはまさに絶対に正しそうな言葉で、誰も何の疑いもなくすぐに正しいことを言うための言葉だと判断してしまうだろう。

 

 

・絶対的な悪や正義の言葉は人の心を支配しやすい

議論するまでもない、疑うはずもない、有無を言わせない、固定された絶対性を持つこれらの言葉は、人間の心を支配するのに非常に便利である。なぜなら絶対に誰もが同じ反応を示し、悪だとか正義だとか、予想通りの結果へと導かれるからだ。

価値観が固定的ではない言葉、絶対的ではない言葉、揺らぎのある言葉を使えば民衆たちの反応は様々に異なる。例えば「納豆」という言葉。納豆には絶対的な要素がない。納豆を好きな人もいれば嫌いな人もいるし、気持ち悪いという人もいれば健康的だという人もいるし、臭いと言う人もいれば美味しいと言う人もいるし様々な価値観が乗っかっている。だから「納豆はとても美味しい」という言葉を世の中へ解き放てば、様々な反応が帰ってくることが予想できる。そうだよねと共感される意見もあれば、そんなわけあるものかと全く逆の反応を示す人もいるだろう。これでは人の反応を読み解くことは難しい。

しかし「差別はいけない」という言葉を世の中に解き放った場合にはどうだろうか。「差別」というのは世の中で固定されている、絶対的に悪の言葉だ。だから「差別はいけない」と言ったならおそらく全ての人間が「そうだ」と頷くだろう。もしも心の中で「そんなことはない!」と反論している人がいたとしても、「差別はいけない」というのは倫理的で多数派で、世の中で誰もがそう信じているということは明白なのだから、反対してしまえば自分が極悪非道な悪者になってしまうことを恐れて、心の中の「そんなことはない!」という反論を口に出さずに、周囲に同調して頷く人も少なくないだろう。

 

・思考停止した絶対的な言葉は人に安全なバリアを与えてくれる

とにかく固定された絶対的な言葉は、人の心を誘導しやすい。これがとても危険なことで、この絶対的な言葉を疑う瞳を育てなければ、ぼくたちは真理の世界へと到達できないだろう。

「差別」「いじめ」「セクハラ」「パワハラ」「人殺し」「盗み」「自殺」「死」「暴力」「逆らう」「地球温暖化」「オゾン層の破壊」「環境破壊」という言葉は、本当に絶対的に悪だろうか。「平等」「平和」「愛」「自粛」「常識」「共生」「国際的」「多様性」「生きる」という言葉は、本当に絶対的に正義だろうか。みんながそう言っているからといって、みんながそう信じているからといって、自分まで思考停止して自分の感性や哲学で0から考え始めることをせずに、周囲に流されて何も考えないままで、悪だとか正義だとか決めつけてもいいのだろうか。

固定された絶対的な悪の言葉や、固定された絶対的な正義の言葉は、人の世の中で攻撃する場合に使われやすい。なぜなら絶対的に悪いとか、絶対的に正しいとか最初から決められているから、正義のバリアに守られて到底反論されにくいからだ。様々な思考する余地のある議題であっても、「男女差別はいけない!」とか「平和を守らなければならない!」という固定された絶対的な言葉を投入することで、その場を思考停止の状態に陥らせ、自分は絶対的な正しさというバリアに守られながら安全な場所から言論的に攻撃し、自分の思い通りにその場の思考をコントロールすることが可能だ。

本当は思考する場に、思考停止の絶対的な言葉なんか持ち込んではいけないのだ。もし持ち込むのなら、その絶対的な言葉の持つ悪の気配や正義の気配が果たして本物かどうかを、根本から考え直すことから始めなければならない。しかし人間にはそのような能力のない人が多く、まさに植え付けられ洗脳された悪や正義の気配に心を支配されたままで、自分が思考停止の言葉でコントロールされたとも知らずに、まやかしの悪や正義に議論を乗っ取られたままで、結論はおかしな方向へ導かれてゆく。

 

 

・正しさに守られる卑怯な人生

議論している際に、思考停止の絶対的な言葉を使ってくる人物には注意が必要だ。その人間は固定された価値観のバリアによって自分を守護しながら、安全な場所に身を隠し、確実に自分が傷ついたり否定されたりしないように準備してからでしか攻撃をしないような、小賢しい臆病者だからだ。

小賢しく既定の正しさに守られて、賢しらに自分自身は傷つかない安全な状態を保ちながら、相手を尽く傷つけるために攻撃を繰り出してくるような人間を、ぼくは信頼することができない。それは潔くないのではないだろうか。それは卑怯ではないだろうか。本当に議論を交わすというのなら、お互いにきちんと攻撃され傷ついてもいいような状態で、対等に争うべきではないだろうか。

正しさのバリアによって安全に守られながら、相手を傷つけたり攻撃したりする残酷な人々の様子は、ぼくには決して正しいふるまいだとは思えない。彼らは正しい人々ではなく、思考停止の固定された正しさを利用して人々を傷つけている一種の悪人ではないだろうか。

正しさとは本来、人間世界によい影響をもたらしてくれるもののはずだ。それなのにそれとは真逆の、自分は安全な場所で匿われながら人を傷つけることのできる残酷な凶器となっているなんて、一体どうしたことだろうか。それは絶対的な正しさというものが、間違っていることを意味してはいないだろうか。

思考停止のバリアに守られて生きていく人生なんて、滑稽だ。他人の人生なんてどうでもいいが、ぼくはもっと野ざらしの花のように美しく生きたいと願う。どんなに雨に打ちひしがれようとも、どんなに否定を注がれようとも、ぼくは正しさの傘を持たずに、あらゆる痛みを全身に受けたままでこの世から消えていこう。

 

・中島みゆき「Nobody Is Right」

もしも私がすべて正しくて とても正しくて周りを見れば
世にある限りすべての者は 私以外は間違いばかり
もしもあなたがすべて正しくて とても正しくて周りを見れば
世にある限りすべての者は あなた以外は間違いばかり

つらいだろうねその1日は 嫌いな人しか出会えない
寒いだろうねその一生は 軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが相入れないのは一体なぜなんだ

Nobody Is Right
正しさは 道具じゃない

 

・思考停止した絶対的な言葉について思考した記事一覧

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