日本にはとてもお世話になっていると中国人に感謝されました。
日本のアダルトビデオが中国人男子の役に立っているというのは本当か?
・遂に中国の最終目的地・福建省廈門へ到着
・貴州省の中国人青年との鼓浪嶼への小旅行
・中国人男子はみんな日本のアダルトビデオにお世話になっているらしい
・根源たちに文化を入り込ませることは憎しみを喪失させる
目次
・遂に中国の最終目的地・福建省廈門へ到着
東南アジア周遊を経て中国の雲南省へと陸離で入国し、そこから中国南部を南へと渡り、貴州省、桂林と旅して、遂に中国の最終目的地、福建省の廈門を訪れた。
廈門は日本語でアモイと読むが、普通「門」をモイとは読まないので、アモイは中国語の発音なのかと思っていたが、中国語では廈門を「シャーメン」と呼んでいた。とすれば一体、アモイとは何語の発音なのだろうか。
日本人にとって、福建省と言えばサントリー烏龍茶のイメージくらいしかないのではないか。ぼくもそうだった。しかし実際に福建省廈門に来てみると、一度も烏龍茶を見ることはなかった。
・貴州省の中国人青年との鼓浪嶼への小旅行
そんな福建省廈門で、ぼくはひとりの中国人青年と仲良くなった。彼は貴州省出身でアナウンサーをしているらしく、1年に4日しか休暇がバケーションが取れないが、その4日間で廈門に旅行に来たのだと語っていた。ぼくと彼は宿のドミトリーの部屋で一緒になり、彼は英語を話したの打ち解けて仲良くなった。
出会った日は一緒に夜ご飯を食べた。廈門は美味しいシーフードであふれた街なので日本人は食事に関して大満足するだろう。夜ご飯を食べながら、明日は廈門の離島、鼓浪嶼(コロンス島)を一緒に訪れようと決めた。
鼓浪嶼は廈門からフェリーで30分ほどでたどり着く小さくて静かな島だった。今調べると世界遺産だったらしい!まじか知らなかった!確かに西洋的な建築と中国の文化が入り混じった不思議で特徴的な島だった。
・中国人男子はみんな日本のアダルトビデオにお世話になっているらしい
鼓浪嶼の美しく静かな街並みを歩きながら彼とはいろんな話をしたが、一番印象に残っているのは、彼が日本に感謝しているという話だった。なぜなら彼は日本のアダルトビデオを見ながら育ったからだという。彼に限らず、すべての中国人男子は日本のアダルトビデオにお世話になっていると彼は断言していた。本当だろうか?
彼によると中国でアダルトビデオを作ることは政府により禁止されているので、中国のアダルトビデオというものはないらしい。それゆえに近隣のアダルト大国である日本に、中国人男子たちは助けを求めているというのだった。
彼はいくつかの日本語を知っていたが、どのように覚えたのか聞くと日本のアダルトビデオから覚えたのだと言って笑っていた。彼が覚えた日本語は、女優が最後に言う「ありがとう」という言葉や「気持ちいい」という言葉だったので笑ってしまった。一体日本はどのような国だと思われているのだろうか。
さらに彼によると彼がはじめてアダルトビデオを見たのは18歳だったという。ぼくは彼に、それは18歳以下は見るなという18禁の注意書きを忠実に守っていたからかと尋ねると、そうではなく中国でそれを見ることは禁止されているので、そのためのサイトを頑張って探し出せたのが18歳だったということだった。なんと涙ぐましい努力が彼の裏には潜んでいたことだろう。中国人男子の苦労は日本人には予想がつかない。
・根源たちに文化を入り込ませることは憎しみを喪失させる
しかしどのような形であっても、このように日本文化に触れながら若い人々が育っているのはとてもいいことのように思えた。若者男子の「性」という最も主要で最も根源的な部分に日本を含ませておけば、もはや将来中国人たちが政府によりどのような教育を受けても日本を嫌いになりにくくなるのではないだろうか。男子がいつもお世話になっている性的なものに含まれる要素を憎むようになるとは思えない。
中国において若者男子の性という最も重要な課題に日本が入り込むことに成功しているならば、それとは別に幼少期から見るアニメにも、日本は入り込むことに見事に成功しているだろう。中国も韓国も台湾も、子供たちはたくさんの日本のアニメを見て育っていて、彼らもそれについてよく知っているし好感を持っている。人間の性質のおおよそが幼少期に形成されるというならば、その感性の発育に大きな影響を与えたアニメを、そしてそれを作り出した日本という国を、嫌いにはなりにくくなるのではないだろうか。なぜならそれは彼らの精神を形成し、その要素となっているのだから。
自分を作り上げたものを嫌いになんかなれない。それは自分を否定することと同じ仕事になってしまうからだ。ぼくだって小さい頃に見たドラえもんやクレヨンしんちゃんを、決して嫌いにはなれないし今でもよく見ている。
周りの大きな権力たちが日本を憎むように教育しようといくら企んでいようとも、人々の根源に日本の文化が確かに大量に入り込んでいる限り、彼らの思い通りになるとは限らない。