他人の悪意や非難に傷つかずに生きる方法を徹底解説!言葉で人の心を傷つける者が悪人だというのは本当か?

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他人の悪意に惑わされずに、ただ進め。

他人の悪意や非難に傷つかずに生きる方法を徹底解説!言葉で人の心を傷つける者が悪人だというのは本当か?

・人を傷つけることは悪いことだ
・言葉は悪気もなく思いがけず人の心を傷つける
・言葉で人の心を傷つける者が悪人だというのは本当か?
・言葉で心を傷つけられた者が正しい被害者だというのは本当か?
・会話は2人によって成立する現象であり、その中の事件の責任は2人にある
・自分の心を支配することで、無意味に傷つくことなく道を歩め

・人を傷つけることは悪いことだ

人を傷つけることが悪いことだというのは、人間の世界では常識中の常識である。肉体を傷つけられると痛いし、苦しいし、生きていくのが難しくなる場合もあるし、最悪の場合には死に至ることだってあるかもしれない。ナイフで人を突き刺せば犯罪になって逮捕されることはもちろんのこと、ほんの小さな針で人の皮膚をちょっと刺すことだって、決して賞賛される行為とはならない。人は傷つけられることにかなり敏感であり、人の肉体を傷つける者を徹底的に非難し、排除しようとする傾向が見られる。

肉体と同様に、人の心を傷つけることも最悪の行為であると言われる。中島みゆきはお父さんから「刃物で切った傷なら薬で治せるけれど、言葉で切った傷につける薬はない」と教えられて育ってきたそうだ。確かに言葉によって直接心を傷つけられたり、陰口を言われたり、悪い噂をされることで心が悲しい思いをすれば普段通り生きていくのが難しくなるという経験を、誰もがひとつやふたつしたことがあるだろう。

 

 

・言葉は悪気もなく思いがけず人の心を傷つける

しかしながら言葉によって人を傷つけずに生きていくというのは、意外と難しい。自分が何の悪気もなく言った言葉でも、それを受け取る人によっては傷ついたり悲しんだりすることがあるからだ。「言葉で人を傷つける」という行為は複雑であり、それには言葉を放つ人と、言葉を受け取る人の2つの要素が存在する。

言葉を放つ人が、本当に言葉を受け取る人を傷つけたくて放つ悪口も確かにあるだろう。「バカ」とか「ブス」とか「死ね」とか言うのは明らかに悪意のこもった言葉の表現であり、相手の心を積極的に傷つけて落ち込ませてやろう、泣かせてやろう、悲しませてやろうという意図が見て取れる。このように明らかに相手の心を傷つけたいと願って解き放たれた悪口は、決して褒められることではないものの単純でわかりやすい構図だと言える。傷つけてやろうと言葉を解き放つ、そしてその狙い通りに相手の心は傷つく、これほどまでに単純明快な現象はないだろう。

困るのは全く悪意も傷つけるつもりもなく解き放った言葉が、相手の心を傷つけることがあるという現象だ。例えばとても可愛いくて愛嬌があるという意味合いで「あなたは子犬みたいだね」と言い放ったとする。しかし相手は「犬」と言われることに強烈な嫌悪感を持っており「私のことを犬のようだと言うなんてひどすぎる!」と心を傷つけられてしまうことだってあるだろう。傷つけてやろうなんていう気持ちは毛頭なくむしろ褒めてあげたかったのに、相手の感性や「犬」というものに対する認識が文化的にあまりに違うことにより、逆に心を傷つけてしまった。このような場合は、果たしてどちらが悪いのだろうか。

 

・言葉で人の心を傷つける者が悪人だというのは本当か?

もちろん多くの人々がどんなに悪気がなかったとしても「あなたは子犬みたいだね」と言い放った人が悪いと責めるだろう。軽はずみで思慮が足りなかった、相手の文化や感性を理解していなかった、浅はかな人間性が透けて見えたなどと非難され、何の悪気もなかったのに完全な悪者に仕立て上げられるかもしれない。言葉を使うときには、その言葉を受け取る相手の感性や文化的背景をよく理解してから解き放つべきであるから、確かにこれらはまっとうで正しい意見だと言えるだろう。

では「私のことを犬のようだと言うなんてひどすぎる!」と悲しむ側の人間には、何も問題はなかったのだろうか。言葉で傷つけられた側は常に被害者で、守られるべきであり、何の罪もない正しい人間なのだろうか。ぼくにはそうは思えない。言葉を放った側に決して悪気がないとわかっているならば、寛容な広い心で相手を許してやるべきではないだろうか。普通に人間生活を営んでいれば、相手に悪気があるのかないのかなんて結構わかりやすいことではないだろうか。

相手に悪気がないことが明らかにわかっているのなら、悲しい気持ちをこらえて許してあげた上で「悪気はないことはわかっているけれど、そのような言い方はこのような理由で傷つくのでもう言わないでほしい」とそれとなく伝えることが、円滑な人間関係を進めていく上での妙技ではないだろうか。この世の中では様々な種類の人々が共に暮らしているのだから、何に傷つくのか、何に悲しむのか、その価値観も多種多様であり、それらの全てを理解することは難しい。重要なのは自分が何に傷つくのかを知らない相手をヒステリックに責めることではなく、知らないことは多様性のあるこの社会では当然のことだと諦め、理解してもらおうと心を近寄らせていく姿勢ではないだろうか。

「私が何に傷つくのか知らないなんておかしい」「私が何に悲しむのか知らないなんて異常だ」「私が何に傷つくのか誰もが知っていて当然だ」「私が何に悲しむのか誰もが知る必要がある」という思いを前提で生きることは、傲慢で厚かましい態度ではないだろうか。

 

・言葉で心を傷つけられた者が正しい被害者だというのは本当か?

「言葉で傷つけた人」が常に悪者であり、「言葉で傷つけられた人」が常に正しい人であるという人間社会の常識は、ぼくにとっては思考停止の思い込みにしか感じられない。この構図を利用し、社会的に正しい人となることで正義の盾に守られながら、何の悪気もない人々を傷つけ攻撃しようとする態度は大きな問題だ。偽りの正しさを与えてしまうことでそれを利用し盛大に誰かを傷つけようと試みるならば、それはもはや決して「正しい人」にはならないだろう。

会話というのは、2人いて初めて成立するのだ。その2人の会話という現象で何か問題が生じたならば、その問題の責任は紛れもなく2人両方にあると断言できる。その会話の中で言葉によって傷つけられたことが問題になったとして、傷つけた方が絶対的な悪であり、傷つけられた方が守られるべき正義であるというようなことは絶対にない。2人の会話という現象のさなかで傷ついたというのなら、その原因は必ず2人にある。

例えば上記の会話のように「子犬みたいだ」と言われて傷ついたなら、いつも「子犬みたいだ」と言った方が悪いと責められがちになるが、傷ついた理由は「子犬みたいだ」と言ったことだけでは決してない。つまり言葉を受け取る側が「子犬みたいだ」と言われたことにより傷つくという”感性”を持っているからこそ、その言葉に傷ついたのだ。そのような感性を持っていなければこの2人の会話の中で、心を傷つけられるという現象は発生しなかっただろう。

傷ついた原因は浅はかに「子犬みたいだ」と言い放った側にもあるし、「子犬みたいだ」と言われた側の傷つく感性にもあるのだ。ぼくは何も「子犬みたいだ」と言われて傷つく感性が悪いと言っているわけでは決してない。これまでに生きてきて培ってきた感性は、それはそれでいいに決まっている。しかしそれは確かな原因のひとつなのだと強調したいだけだ。「子犬みたいだ」と言われて、それって可愛いって意味だよねと受け取って喜ぶ人や、愛嬌があって親しみやすいととらえて照れ笑いする人もいるだろう。様々な反応を示す人々がいると大いに予想される中で傷ついた反応を見せているのだから、その感性が傷ついた理由のひとつであるということに異論の余地はない。

 

 

・会話は2人によって成立する現象であり、その中の事件の責任は2人にある

言葉というものは本来そのようなものではないだろうか。傷つけた方が悪者で、傷ついた方が被害者だとは決してならない。2人で行われる会話という現象の中で何か事件が発生した時は、その事件の責任は紛れもなく2人にあるのだ。

「傷ついた私は正しく、傷つけたあなたは悪者で、私は正しさの庇護のもと悪者であるあなたにどんな仕打ちをしても許される」という風には決してならない。傷ついた理由は相手の言葉だけではなく、自分の感受性にもあるのだ。それは曲げることのできない事実であり、そこに人間の会話の複雑さと、そして常に生じる共犯性が隠されている。会話という2人で作り上げた現象で何か問題が起これば、どちらか片方が悪いのではなく、共犯なのだ。

偽りの正しさの仮面を剥ぎ取り、共に罪を背負え。

 

 

・自分の心を支配することで、無意味に傷つくことなく道を歩め

言葉によって心が傷つくのは何も相手の言葉のせいばかりではない、自分の感性や受容体の問題ですらあるという悟りは、すなわち言葉によって傷つく自分の心を自分自身でコントロールできるということを意味する。言葉によって心が傷つくのが全て相手の言葉のせいであるというならば、傷つけられる自分の心を守る手立てはないが、傷つく理由に自分の感性も含まれているというのなら、ぼくたちは自分の感性を支配することで自分の心が傷つかないように仕向けることが可能となる。

ぼくたちはこの世に生きていて、相手の言葉や言動を支配することは不可能だ。他人というものは自分と全く関係のない遠いところで動いており、どんなに抑えつけたり縛ろうとしたところで自分の思い通りに動いてくれるはずがない。他人を支配できないとわかったならば、言葉によって傷つかないための方法はただひとつ、言葉を受け取る自分自身の心をうまくコントロールしてやることだ。

例えばものすごく悪意のある言葉を刃物のように投げつけられたとして、普通なら傷ついてしまうところを、自分の感受性をコントロールして「あぁ、こんな風に人を傷つけるような悪意ある言葉しか言えないこの人は哀れで可哀想な人だ。きっとこの哀れな人格のせいでこれから不幸なことが次々にこの人にふりかかるだろう。不憫なことだがぼくには関係のないことなのでどうか頑張ってほしい」などと思い込めば、自分の心が傷つくなくむしろ相手へのいたわりの気持ちを抱くことができる。

もしくはお前は間違っていると激しく否定されたときなんかも、相手の言葉を支配はできないのだから、自分の感性の方を支配して「あぁ、この人は激しくこちらを否定しているけれど、自分がさぞかし正しい人間だと思い込んでいるのだろう。可哀想に。人間なんて誰もが間違いだらけで罪深い生き物だというのに、そんな簡単な真理にすら気づかないで正しい顔をしてこの世を生きていられるなんて、何と厚かましく無神経で哀れな生き様だろう。人間なんて誰もが間違って生きているのだから、こちらを否定しているこの人も間違いだらけに決まっている。間違いだらけのこの人にいくら間違いだと非難されようとも、この人自体が間違いだらけであるという時点で、この人の非難が正しいとは限らないのだから、気にするだけ時間の無駄だ。」と思い込むことで、他人からの否定や悪口などひとつも怖くなくなる。

生きていく上で心が傷つくことは人生の情緒という味わいのひとつであり大切な要素であると思われるが、むやみやたらと向けられる悪意や非難に構っていられるほど人生は暇ではないので、愚かな人々の悪意に無駄に傷つくことなく人生の歩みを進めるべきである。

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