奪われることをおそれてはいけないというのは本当か?

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奪われることと与えることは、どう違うのだろう。

奪われることをおそれてはいけないというのは本当か?

・ぼくたち人間の心は奪われることに敏感だ
・ぼくたちが喪失や奪い取られることに敏感な理由
・ぼくたちの内分泌が指し示す奪い取られたくない本能
・奪われることをおそれてはいけないというのは本当か?
・与えること、愛することこそが重要だと主張する記事
・小賢しく奪われてなるものかと警戒する記事

・ぼくたち人間の心は奪われることに敏感だ

ぼくたち人間の心は、手に入れることよりも喪失することの方に敏感になってしまうという。例えば100円を手に入れた嬉しさと、100円を失ったときの悲しみは、普通に考えれば同程度であるべきはずなのに、ぼくたちの心は喪失の方を極めて重要にとらえ、100円を手に入れた嬉しさよりも100円を失ったときの悲しみの方がはるかに大きく感じられてしまうという。

確かに自分の人生をふりかえってみてもなんとなくそれは納得がいくような気がする。何かを不意に喪失したり、何かを不条理に奪い取られたときの悲しみや悔しさは、同じ分手に入れたときの場合に比べてはるかにインパクトが大きく記憶にも残りやすいだろう。そしてその時の記憶が知らず知らずのうちに心の傷に変わり、もうあんな思いはしたくない、これからは二度と奪われてなるものかと、生きるほどに心が硬直し怯えてしまう。

 

 

・ぼくたちが喪失や奪い取られることに敏感な理由

一体なぜぼくたちはそれほどに、喪失や奪い去られることに敏感になってしまうのだろう。ぼくの予想だと、それはひとえに生き死にに関わる問題だからではないだろうか。

人間がまだ野生動物だった頃や、原始時代で食べ物を安定的に手に入れることができなかった時代に、せっかく努力して手に入れた獲物や木の実などの食べ物を無造作に他者に奪い取られては、もはや自分が生きていくことがままならなくなってしまう。自分の生命をなんとしてでも生き延びさせることは、この意識に課せられたたったひとつの最も重要な使命だ。その使命を全うすることを妨げる要素は、なるべく減らさなければならない。うっかり喪失すること、無理矢理他者に奪い取られる出来事など、ないに越したことはないのだ。

今となっては人間が科学技術を発達させ食べ物を安定的に手に入れることができる時代になったが、今日明日の食べ物も不安であるようなかつての原始時代や野生動物の時の、生きていくことに必死な世界でなんとか自分を生かさなければならないという本能の炎がまだぼくたちの奥底で消えずに激しく燃え続けて、奪われることに敏感になってしまうのではないだろうか。

 

・ぼくたちの内分泌が指し示す奪い取られたくない本能

医学的な話をすると、ぼくたちの体には血糖を上昇させるホルモンは複数あるものの、血糖を下げるホルモンはたったひとつ「インスリン」しかない。この事実からもぼくたち人類は今までの歴史の中で、血糖を下げる必要があるような食べ物をたらふく食べられる場面は滅多になかった、むしろ肝臓や筋肉や脂肪から糖を引っ張り出して血糖を上昇させなければならないような”飢え”の場面が多かったことが伺える。

ぼくたちの内分泌が指し示す、飢餓の多かった人類の歴史の中で、奪い取られることは死活問題となる。どんなに今の時代が食べ物にあふれ裕福であろうとも、長年の経験から遺伝子に刻み込まれている飢えの記憶がいまだにぼくたちを支配し、奪い取られてなるものかと喪失に敏感になってしまうのかもしれない。

 

 

・奪われることをおそれてはいけないというのは本当か?

このブログの中でもしばしば、人間の真実の幸福への道は「愛すること」「与えること」によってしか得られないのではないかと結論付けた。しかし惜しみもなく与えることと、今まで考察してきた奪われてなるものかと世界を警戒している心の姿勢は、矛盾し得るものではないだろうか。

奪われることと与えることは、どう違うのだろう。どちらも自分が喪失するということに変わりはない。目の前の飢えた人に慈悲の心からパンを与える。目の前の飢えた人が自分のパンを無理矢理奪い取る。一見全然異なるように見えるこの2つの出来事は、自分がパンを喪失するという観点からすればなんの変わりもない同一の現象だ。同じことなのに、自分が進んでパンを与えた場合には幸福な気持ちになり、パンを奪い去られた場合には不幸な気持ちになるのはどうしてだろう。自分の元からパンが去ったという事実は、変わりはしないのに。

与えることがなかなかできない時もある。それは与えれば自分が喪失してしまうと感じるからに他ならない。与えれば、自分からそれが喪失され、自分は損をしたような気分に陥る。奪い取られてなるものかと、多くの人々が古代の遺伝子に刻まれた記憶に支配され、喪失や奪い取られることを厭い敏感になってしまうような人間社会では、与えるという行為は困難を極めるものかもしれない。

奪い取られてなるものかと警戒する自分を蔑むべきだろうか。惜しみなく与えることができずに真実の人間の幸福を知らない心を恥じるべきだろうか。たとえ奪い取られても、与えることができたのだとむしろ幸福に感じる心が必要だろうか。与えてばかりでは生き延びられるはずがないと厳しい本能の炎を尊重すべきだろうか。

奪い取られてなるものかと睨みをきかせる本能的な自分もいる。与えることにより真実の幸福が心に生じることを知っている自分の魂もいる。結局はこのような混沌とした矛盾の海の中を泳いでいくしかないのだろうか。矛盾に引き裂かれている時こそ、人間は本当の自分の正体に気づくのだから。自らの根源に眠る赤い本能の使命と、頭上はるか高くに宿っている魂の幸福の矛盾を、どのように折り合いをつけて人生の海を渡れば、ぼくたちは新たなる島へとたどり着けるのだろうか。

 

 

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