孤独死が悲しく恐ろしいことだというのは本当か?大切な家族に見守られながら死ぬことが幸福だというのは本当か?

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孤独ではない死など、この世にあるのだろうか。

孤独死が悲しく恐ろしいことだというのは本当か?大切な家族に見守られながら死ぬことが幸福だというのは本当か?

・孤独死が悲しいことだというのは本当か?
・「孤独死」に対する衆生の反応
・日本人にとって理想的な死とは何か
・人間が死ぬときは、誰もが絶対にひとり
・誰もが孤独死するしかないこの世の中で

・孤独死が悲しいことだというのは本当か?

最近の社会では、高齢者や独身者が誰にも気づかれることなくマンションの一室などで死亡してしまっているのに、長い間発見されずに放置されてしまうような状態が問題になってきている。ニュースなどではその状態を「孤独死」と名付け、新しい日本の社会問題として取り上げようとする動きがある。

孤独死の原因としては、これまでの日本社会では地域内や家族同士の人間関係が濃密だったから誰かが死亡してもすぐに発見されるに至ったが、最近の日本社会の核家族化や未婚率の増加、地域社会の交流低下に伴い人間関係が以前と比べて希薄化し、人知れず静かにこの世を去ってしまった人々の死亡がすぐさま気づかれにくい状態にあるということが挙げられるという。

 

 

・「孤独死」に対する衆生の反応

このような「孤独死」のニュースに対する世の中の人々の反応はわかりきっており、孤独死なんて恐ろしい、そんな人生の最期を遂げるなんて悲しすぎるしやりきれないといたたまれない気持ちになっている。そして自分だけはそうはなってはなるまいと焦り、未婚の人は早く結婚しなければならないとひどく焦り、子供のいない人は看取ってくれる子供が欲しいと必死に願い、また一人暮らしの老人などは安心して暮らせる老人ホームに入らなければならないと画策する。

誰だってひとり惨めに部屋の中で死んで誰にも気づかれないまま腐敗してゆくよりも、愛する人々に見守られながら天国に行きたいと願ってしまうものだろう。

 

・日本人にとって理想的な死とは何か

人間の理想の死に方とは、どのようなものだろうか。人間はいつか、必ず絶対に死ぬ。どんなに素晴らしい人格者であっても、たくさんの人々の命を救ってきた医者であっても、どんな願いでさえ叶う国王であっても、死から逃れられる人間などこの世にひとりとして存在しない。絶対に死から逃れられないというのなら、人々はいつか来る自分の死に思いを馳せ、自分がどのように死んで生きたいかと少しは考えてしまうのが人情だろう。死なんて突然に訪れるものだから、理想的な死を迎えられる可能性はかなり低いけれど、それでもこの命の終わりの状況というものを考えずにはいられない。

ぼくが周囲の日本人を観察していると、彼らの理想的な死とは「大切な家族に見守られながら安らかに死にたい」というのが最も典型的なものではないかと思われる。どうせ死んでしまいこの世の誰とも会えなくなってしまうなら、せめて最後は可愛い子供達や孫に囲まれて死にたいと思ってしまうものだ。そしてそのためには、自分は結婚し、子供をもうけ、立派に育て上げた上で自分自身が家族に愛されるような人間にならなくてはならないと思い込む。

また「自分は人生でやりたいことをやりきった」と言って清々しい最高の気持ちで人生を終えたいという意見の人も散見される。人生の最後なのだからやり残したことや後悔など一切持たずに達成感と共に極楽浄土へ行きたいと願うことは自然な成り行きだろう。そのためにはこの人生で心の中から沸き起こる全ての願いや夢を叶えておかなければならないと、人々は焦り迷い惑う。

あらゆる人々の死への願いは「孤独死」とは全くかけ離れた境地にあり、発見されない死、誰にも振り向かれない死、惜しまれない死、嘆かれない死、いてもいなくてもわからなかった死とは正反対に当たるものである。人々は孤独死を恐れ、潜在的に見下し、自分がどうすれば孤独死という”負け組”にならないかを必死になって考え、計画し、実行する。

人々が孤独死を恐れるあまり、孤独死を紹介するニュースや記事は注目され、注目されるばかりに書き手はより一層孤独死を重大な”問題”として過剰に取り上げ、大げさにその悲惨さをアピールする。そしてあなたはそうなるべきではない、どうにかして孤独死から逃れたいでしょうと詰め寄り、「婚活」や「出会い」、「子作り」などの商売へと持ち込もうとする。全ての人間たちに植え付けられたおそれは、末端を観察すれば必ず浅はかな商売へと導かれていく。

 

 

・人間が死ぬときは、誰もが絶対にひとり

しかしきちんとよく考えれみれば、孤独死というのはそんなに嘆かわしい悲惨な問題なのだろうか。そもそも、”孤独死”という言葉自体が怪しい。孤独ではない人間の死など、この世に存在するのだろうか。

人間は死ぬときは、絶対にひとりだ。孤独だ。たとえ誰かと一緒に死のうと誓って、水の中に抱き合いながら飛び込んだとしても、そんなもの別々に死ぬに決まっている。一緒に死のうと誓って同時に薬を飲んでみたところで、死ぬタイミングも違っていれば気持ちさえかけ離れて異なっているのは当然の成り行きだ。もしかしたら誓った相手は薬を飲んだフリだけして自分だけ生き延びて、死んだ人を横目にのうのうと人生を続けるかもしれない。

また愛する家族や大切な人々に見守られながら死ぬことこそ幸せなのだと、世の中ではしきりに宣伝されているが、果たして本当にそうなのだろうか。だいたい”幸せな死”などあるのだろうか。死というのはだいたい悲しく恐ろしいものだ。ほとんどの人々が、本能的に最も恐れている現象が死ではないだろうか。そんな死をたかが家族という名の他人に見守られたからといって、軽々しく幸せに転じさせられるものだろうか。

死というのは個人的で孤独なこの世からの旅立ちだ。そこには他人なんて一切関係ないし、関与する余地などあろうはずがない。たとえ家族や大切な人に見守られたからといって、それが自らの死に影響を及ぼすことなんてありえない。”見守る”といえばなんだか大変ありがたい感じもするが、それはただボケーっと死んでいく人を見ているだけの無為な行為であるのに、そんなのほほんとした行為が死という壮大な生命の旅立ちを彩るなんて不可能だと言えるだろう。だいたい死ぬ瞬間というのは本人だって必死でかなり切羽詰まっている状態なのに、そんな状態で「あぁ自分は見守られているんだ、幸せだなぁ」としみじみ呑気に悦に入っている余裕などあるはずがないのではないだろうか。死という現象はどこまでも個人的に、孤独に、自分だけに注がれる生命において重要な旅立ちの事件であり、ただひたすらに自分だけと向き合う神聖な瞬間であるのに、そんな神聖な瞬間にその魂の瞳に、他者の姿が映るわけがないのだ。

家族や大切な人々に見守られながら死ぬことが幸せだなどというのは、世の中から植え付けられた全くの偽りの幻想ではないだろうか。

 

 

・誰もが孤独死するしかないこの世の中で

死というものは絶対的に孤独であり、個人的だ。たとえ誰かと一緒に死のうと誓っても、大切な人々に見守られようとも、そんなことは一切関係なく、死という旅立ちは常に自分ひとりだ。そこに他者が影響し、介入する余地などありはせぬ。

家族に見守られているからそれは孤独死ではないなどというのは、人間の願望の入り混じった都合のよい幻想ではないだろうか。死というものはそばに家族が寄り添っていようが、横で可愛い飼い猫がスヤスヤ眠っていようが、自分の自分による自分のためだけの徹底的に孤独な作業なのだ。それを孤独な死など自分には訪れてほしくはないとうろたえ、死というものの本質から目をそらして必死に偽りの世界へと逃れようとするとは、一体どういう了見だろうか。

ぼくは自分自身の心を振り返っても、世の中で言われているように、大切な人々に見守られながら死にたいなどとは全く思わない。大切な人とは生きている間に思う存分、仲良く楽しく一緒に暮らしていればよいのだ。別に死ぬ瞬間まで付き合ってほしいなどとは決して思わない。死という旅立ちは、ぼくだけの孤独で神聖な飛翔だ。孤独というのは世の中で言われていうように悪い状態ではなく、究極的に神聖な状態なのだ。ぼくだけの死に、誰かを触らせてなるものか。誰もが孤独死するしかないこの世の中で、ぼくも同じように、潔く孤独に死を迎えよう。

 

 

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