巨大な正しさに身を任せてしまう者は、いずれ正しさという悪魔に心を奪われてしまう。
コロナがあぶり出す人間の本性!自分が我慢しているのだから我慢していない他人を攻撃してもいいというのは本当か?
・新型コロナウイルスでの自粛と我慢
・36時間寝ずに働く医者の労働環境
・好きじゃないことを我慢してこなす人生
・他人を裁き許せない者たちへ
・新型コロナウイルスでの自粛と我慢
新型コロナウイルスで自分は頑張って我慢して自粛しているのに、他人が外出したり自由に動いたりしているのを見て、ズルいと感じ許せずに攻撃するような種類の人が増えている。それによって自由に生きようとしている人間の集団も攻撃されないように傷つけられないように、ちょっとは自粛しようとしたりまたはインターネット上で主張しないで隠れて自由に生きようとする動きが見て取れる。
もちろん感染拡大予防的に、もしくは倫理的、常識的には頑張って我慢して自粛するのがふさわしいのであり、だからこそ頑張って我慢して自粛している人々は自由に生きている人々を胸をはって憎み、妬み、攻撃することが可能である。彼らには盾がある。医学的な盾、倫理的な盾、常識という盾、模範的という盾、そのような数々の絶対的な盾に守られ匿われながら、安全な形で正しい人々は攻撃を続けられる。
しかし人間というのは集団で生きているのだから、一定数我慢して耐えられる人種もいれば、自分の好きなようにふるまってしまう人間がある程度存在することは当たり前だし仕方のないことだ。様々な多様性に富んだ人間社会に生きているのだから、100%すべての人間が耐え忍び自粛することなんてありえない。けれども我慢する正しい人々は0か1か、白か黒か、善か悪かで物事をとらえ、全ての人々は自分たちのように正しくふるまうべきだと主張し、それに合わない人々を見つけ出すと嫉妬や憎悪が生まれ、攻撃を開始し、やがては心の乱れや苦しみが生じる。
我慢して正しい人間になれば感染を防げるし確かに人間の集団にとっては有益だ。しかし人は感染を拡大しないためにこの世に生を受けたわけでもあるまい。メディアなどの巨大権力はぼくたち人間がまるで感染を拡大しないために生きているのだと言わんばかりの報道を繰り返し、個人の思いを抑えつけ集団的な健康を優先するのが当然であるかのように物事は語られる。テレビや国家がすべて何もかも正しいのだとありがたがる種類の人間はそれらの言うことを大人しく聞き、人間集団のために個人的な欲望を抑え我慢してストレスを溜めている。
しかしそれもバランスの問題で、個人の思いがかなり強く、人間の集団の健康よりも自らの思いを優先することは人間なら誰にだってあり得る。まさか感染拡大を防がなければならないと人間集団の利益のために自らの空腹の思いを抑え込み、スーパーマーケットに行くのを自粛して家で餓死するわけにもいくまい。また体を動かしたいけれど人間集団の幸福と利益のために可能な限り感染を防ぐ努力をすべきだと外出や運動するのを我慢ばかりしていると、集団のことを思いやるあまり自分自身の健康が危ぶまれる。人間集団の健康を考えて運動しないよりも、三密を避けて散歩などの運動をするならばむしろあなたという個人のためにははるかに健康的だ。
人間集団における感染を防げないことよりも集団の利益を追求するあまり人間個人の内部に暗黒のストレスが蓄積され、人々が少しでも正しくない他者を憎悪し排除したがり、正しさで満たされた画一的な世の中を望むあまりに攻撃を開始し、お互いの違いや異なりをゆるし会えない世の中が訪れることの方が、はるかに恐ろしいことなのではないだろうか。巨大な正しさに身を任せてしまう者は、いずれ正しさという悪魔に心を奪われてしまう。
・36時間寝ずに働く医者の労働環境
医者の労働環境は今でもひどい有様だった。普通に日中働いて、救急当番で一晩寝ずに働いて、その次の日の日中も普通に働くなんて人間らしい働き方だろうか。しかも医者は命を扱う職業なのだからなおさら注意深くあらねばならない。
しかしこの労働環境は異常だ、修正すべきだと意義を唱える者はいなかった。ぼくにはその雰囲気の中に「自分たちだって昔は我慢して苦労して、このようにひどい労働環境で身を粉にして働いてきてのだから、若い医者たちもその苦しみをきちんと味わうべきだ、自分たちは苦労してきたのに若い医者が苦労しないなんてズルい」というような上の医者たちの意識が反映されているのが見て取れた。
自分が昔は我慢して苦労してひどかったのだから若い人がそれを味わわないように努力して取り除いてやろうというよりはむしろ、自分が昔散々我慢して苦労したのと同じ分を若い人も味わわないと気が済まないという心理が人間には潜んでいるように感じられた。そして儒教的なしきたりに洗脳されている日本の若い医者たちも、目上に正直な意見を言うことはゆるされないと信じて特に何も主張せず、儒教の教えの目的通り大人しく従順で集団に都合のいい部品と成り果ててしまうのだった。
普通に日中働いて、救急当番で一晩寝ずに働いて、その次の日の日中も働いて、その翌日に休憩として眠っている研修医の悪口が噂されているのを聞いたとき、なんだか変な世界だなと感じた。
・好きじゃないことを我慢してこなす人生
自分の好きなことを追求して生きている人を見ると、自分の好きじゃないことをして我慢して苦労して生きている人は嫉妬を覚えるようだ。しかし本来ならば人間は、自分が好きだと燃え盛るように直感するものを目指して生きていくのが通常だろう。それなのに自らの直感を無視して、自分の情熱とは全くかけ離れた異なる分野において労働し、自らを騙し騙し生きていくようになるのは何が原因なのだろうか。
もしかしたら情熱に従うよりも従わない方がもらえる給料が多かったのかしれない、自らの直感に従ってしまえば生活は不安的になり孤立するのが怖かったのかもしれない、心が曇り自らの好きなものを判断する能力さえ喪失したのかもしれない、自分の能力の高さに欲望を見出し社会的地位や富や名声を選んだのかもしれない、全体的な能力が低く情熱を駆使するまでに至らなかったのかもしれない、自らの中に確かな直感を感じるけれどそれを信じる勇気がなかったのかもしれない。
人間は楽な方へ、生きていきやすい方へ、安全な方へ流れ下る習性を持っているので、それを考えると好きなことや情熱を追いかけるよりも合理的な生き方があり、その結果情熱からかけ離れたものを選び取るのだろう。しかし人間は本来自らの情熱を目指して駆け抜けたい本能を持っているので、そこでズレや違和感が生じ、やがては大きなストレスとなり、自分がなぜイライラするのかわからないままで、何か攻撃できるものをさがし始めては彷徨ってしまう。
自分より正しくない人はいないだろうか、自分より我慢できていない人はいないだろうか、自分より自由な人はいないだろうか、自分より幸福な人はいないだろうか、と。
・他人を裁き許せない者たちへ
自分が苦労して我慢しているのに他人が苦労も我慢もしていないのが許せないというのは、軽薄な思想である。この世には様々な種類の人間がおり多様性に満ちている。その中で自分とは大いに異なった人間のいることは世界の通常だ。自らが苦労や我慢の渦の中にあったとしても、それとは関係なく他人が苦労や我慢を抜け出した世界に住むことも当然のようにあり得る。さらに言えば他人が何の苦労も我慢もしていなさそうに見えても、本当のところは本人にしかわからず、外から見ただけでは計り知れないような苦労や我慢や覚悟の潜む人生かもしれないのに、他人の人生を裁いて妬んだり憎んだりすることは無益である。重要なのは全く違う人間である自分と他人を、我慢とか苦労とかいう次元において比較しないことではないだろうか。
自分が苦労して我慢しているのに他人が苦労も我慢もしていないのは許せないという思想は、世界に統一性をもたらす。誰もが苦労し、誰もが我慢するべきだという思いの津波を引き起こし、人間世界の多様性を消失させる。自由に生きられない者たち、自由に生きる者たち、我慢をして耐え忍ぶ者たち、我慢せずに飛翔する者たち、様々な人間がいるからこそ世界は彩りに満ちている。それをたったひとつの、誰もが苦労する世界、誰もが我慢する世界という一色に染めようとするのは危険に満ちている。
正しさが恐ろしいのは、正しくない人を攻撃できるばかりではなく、正しくない人を正しい人へと翻らせて、この世の多様性を消滅させ、違いや異なりをゆるし合う寛容な心を人々から奪い去る点にある。正しさで満たされた画一的な世界が訪れるメリットよりも、人々がお互いをゆるし合う心を忘れた精神荒廃の世界が出現するデメリットの方が、はるかに重大で恐ろしい。
正しさや道徳や常識に安全に匿われ、守られた領域から神のようにあらゆる他人を裁き、善と悪を隔て、片方を滅ぼそうとして憎悪と嫉妬をふり乱すことから、人生の苦しみは生まれる。人間には裁く力も、ゆるす力もない。どうでもいいことはどうでもいいことだと開き直り、どのような他人すらこの世には存在するのだろうとおおらかな心を抱くことから、苦しみのない人生は始まる。