「しつこい」「執念深い」性格の長所として成績学年1位を維持?!しつこい性格は短所や欠点だというのは本当か?

 

しつこい男は嫌われる?!?!?

「しつこい」「執念深い」性格の長所として成績学年1位を維持?!しつこい性格は短所や欠点だというのは本当か?

・「しつこい」「執念深い」性格はいつも負のイメージ
・「関係代名詞」の仕組みをしつこく考え続けた中学生の思い出
・執念深く幼少時代の疑問や違和感を大人になっても解決し続ける浄化作業
・「しつこい」「執念深い」性格によってぼくは学年1位の成績を収め続けた

・「しつこい」「執念深い」性格はいつも負のイメージ

「しつこい」「執念深い」性格というと、何となく世の中では悪いイメージがつきまとっているように感じられる。「あの男はしつこい」といえば、その男のことを褒めていないことは明白だし、むしろ鬱陶しい、気持ち悪いという負の感情が伝わってくる。またアニメのクレヨンしんちゃんでもギャグでしんのすけがみさえに「しつこい女は嫌われるぞ!」と言い放ち、「子供はそんなこというんじゃない!」とお仕置きされている場面もあった。みさえも「しつこい女」と呼ばれるのは不本意であるらしく、やはり「しつこい」というのは決して褒め言葉ではないことが伺える。

「しつこい」「執念深い」というと悪い性格のひとつであり、その人の欠点であると見なされる傾向が強い。確かにしつこい人というのはめんどくさいし、付き合いにくいし、鬱陶しいと退けたくなる気持ちもあるだろう。好きでもない人からしつこく言い寄られることも、決して気分のいいものではない。では「しつこい」「執念深い」という性格は常に人間にとっての欠点で、いいところなんてないのだろうか。

 

 

・「関係代名詞」の仕組みをしつこく考え続けた中学生の思い出

ぼくは自分という人間を観察していて思うことは、ぼくの性格は結構しつこくて執念深いのではないかということだ。なぜなら一度気になり出したことや疑問に思ったことは、その疑問が解決するまで徹底的に考えたり思考するクセを持っているからだ。

例えば中学生の時に英語の授業で「関係代名詞」というものを習ったときに、日本語にはない仕組みなのでどういうことなのか全くわからず「関係代名詞」とは一体何かをずっと考え続けたことがある。日本語にはない言語的仕組みを、一度の授業だけで体得することは難しい。英語にはそういうものがあるのだとただ単に覚えてしまえばいいだけの話なのだが、ぼくの中では「関係代名詞」がどのような言語的仕組みで出来上がっているのか、その論理を脳内でしっかりと構築し、自分の中で深く納得してから先へ進みたかったのだ。

結局ぼくはその日の英語の授業が終わった後も、家に帰ってからも、お風呂の中でも「関係代名詞」とは一体何か?と考え続け追求していたことを思い出す。その甲斐あってその日のうちに自分の中で納得できる「関係代名詞」の答えを見出すことができた。他人からこうだと教えられたことではなく、このようにして自分の中でずっと考え熟成されて出した答えはいつまでも忘れない自分の中の知的財産である。しかし今ふりかえってみればお風呂の中でも「関係代名詞」のことを考えていただなんて、なんとしつこい性格の中学生だろうか!

 

 

・執念深く幼少時代の疑問や違和感を大人になっても解決し続ける浄化作業

またぼくは一度気になってその時考えてもどうしても解決しないことならば、10年でも20年でも忘れずに覚えておくことが可能だ。どんなに時間が経っても忘れずにその疑問を心の中に変わらず保存しておくことで、人生の中でふとした瞬間に解決できる機会がないだろうかと狙っているのだ。なんと執念深い性格だろうか!

ぼくは幼い頃から世の中のことや人間について疑問に思うことを数々心の中で抱えていた。しかし幼児の知識や経験や思考能力には限界があり、それを解決しないままで大人になってしまったことも数しれない。たとえばぼくは幼い頃に自分のことを「もっくん」と呼んでいたが、大人たちに自分のことを「もっくん」と呼んではいけないよと注意されたのがどうしても納得がいかなかった。

どうして自分のことを「もっくん」と呼んではいけないのだろう。周囲の大人たちは誰もが、お母さんも、お父さんも、おばあちゃんも、おじいちゃんもこの肉体や意識や人間のことを「もっくん」と呼んでいるから、自分もその真似をしてやっと「もっくん」と呼べるようになったのに、それを否定されたことが悲しかったのだ。その疑問や違和感をもとに、その疑問や違和感を救済し、浄化させるために書いたのが先日の「童謡サッちゃんの歌詞の本当の意味とは?!自分のことをサッちゃんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?」という記事である。実に何十年も前の幼き日の疑問や違和感を、ぼくは昨日のことのように感じて記事を書くことができるのだ。

童謡サッちゃんの歌詞の本当の意味とは?!自分のことをサッちゃんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?

 

また幼い頃に台所でお母さんから人間は誰もが死ぬのだと聞かされたときは衝撃だった!どうせ死ぬんだったらみんなどうしてここに生きているのだろう!ぼくはショックで人間というものが意味不明となり、その衝撃の結果として何十年後に書いたのが以下の「有名になって後世に名を残した方がいいというのは本当か? 〜記憶されるという穢れ〜」という記事である。

 

有名になって後世に名を残した方がいいというのは本当か? 〜記憶されるという穢れ〜

 

また幼い頃お父さんに山登りに連れていかれ、その道の途中でお父さんに「どうして山が好きなの?」としつこく聞きまくっているとうるさいと怒られたことがある。ぼくは怒られたのでもはや「どうして山が好きなの?」と聞かなくなってしまったが、大人になって初めての車中泊の旅を実行し、紀伊山脈の絶景を眺められる秘境の聖地に立ち尽くしたとき、「どうして山が好きなの?」という疑問への回答が、ふと神聖な紀伊山脈から与えられたような気がした。

 

解答 〜紀伊山脈より〜

このようにぼくは幼き日の疑問や違和感の保存をいつでも引っ張り出して、大人になった自分自身の手によって昇華したり、救済したり、浄化することができる。その浄化の感覚はとても尊く、それはぼくの人生の確実な生きがいのひとつになっていることだろう。それもこれもしつこく、執念深い人間性だからこそ為せる業であると言える。

 

 

・「しつこい」「執念深い」性格によってぼくは学年1位の成績を収め続けた

このように自分で自分を観察してみて「しつこい」「執念深い」という性格の部分が感じられるが、世の中で言われているように「しつこい」「執念深い」性格というのは悪いことばかりではないような気がする。

たとえばぼくは学問が得意で、中高一貫の学校に通っていたが6年間ずっと学年1位を維持し続けていた。定期試験ではほぼ全ての教科で最もよい成績を収めていたし、全国模試では偏差値が100を超えて騒がれたりもした記憶がある。しかし学年1位というのは不思議なもので、どうしてずっと学年1位なのか自分でも全くわからないままだった。自分ではただ普通に自分の好きなように勉強していただけだったからだ。もちろんある程度は真面目だったので宿題などを忘れたこともなく言われたことはきちんとこなしていたが、そんなことは他の誰もがやっていることだろう。

ぼくが学生時代に他の人と異なっていたことは何かと今考えてみれば、この「しつこさ」や「執念深さ」だったのではないだろうか。上に書いたような「関係代名詞」の例だけではなく、ほぼ全ての教科の全ての事柄において、疑問に思ったり違和感を抱いたり自分の中で納得ができないものは、徹底的にしつこくどこまでも追求し、最終的に自分が深く納得できるまで妥協しなかった。そのようにして体得し深めた知識はかけがえのない自分の中の知的財産である。

もちろん「しつこさ」や「執念深さ」は学年1位を6年間ずっと維持し続けた理由のひとつに過ぎないのかもしれないが、ぼくは結構これが重要な要素だったのではないかと思っている。今のこの世の中では、学問ができるということははるかにそれ以上の価値を持つ。学問ができればどんなものにだってなれるからだ。たとえば学問ができなければ、高い学力を必要とされる医者には決してなれないだろう。しかし学力が高ければ、医者にも弁護士にもなれるし、研究者にもなれるし、学校の先生にもなれるし、スーパーの店員にもなれるし、ホームレスにだってなれる。つまり学力が高ければ学力が低いよりも、はるかに幅広い人生の選択肢の中から自由に選びたいものを選択できるのだ。自分が直感で好きなものを選び取りたいときに、その選択肢が多いに越したことはないだろう。

ぼくは結局国公立医学部に入り、医者になり、医者として3年間働いた後に、世界一周の旅に出た。「世界一周の旅に出る」というとんでもない常識はずれな野望を安心して叶えられているのも、学力が高いがゆえに医者になるという道を開かれ、その上で自由な選択ができたからに他ならない。今は新型コロナウイルスの影響で世界一周+日本一周の旅を続けているが、旅を通して英語や歴史や地理や国語や数学や物理など、様々な学問の知識が活かされ、学校で学ぶものに無駄なものはひとつもないとありがたく思う心境だ。自分の中で培われ、養われ、保存された学問という財産が「しつこい」「執念深い」という性格に起因するものと思えば、「しつこい」「執念深い」という性格も世の中で言われているほどまんざら悪くはないのではと思えてくるのだった。

 

 

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