嫌いなものを嫌いだと言ってはいけないというのは本当か? 〜NOと言おう〜

 

優しきものほど傷つく浮世。

嫌いなものを嫌いだと言ってはいけないというのは本当か? 〜NOと言おう〜

・ヘイト
・嫌いなものを嫌いだと言ってはいけないというのは本当か?
・人間を嫌いだと言うこと
・好きと嫌いは同じ言葉
・嫌いなものを嫌いだと言おう

・ヘイト

嫌いなことを嫌いだということを「ヘイト」だと名付けられ、「ヘイト」という言葉に悪意を滲ませることで、たとえ自分が大嫌いだと感じたとしても大嫌いだと言ってはならないという風潮が世の中を支配しているが、ぼくたちは嫌いなものを嫌いだと言ってはならないというのは本当だろうか?

 

 

・嫌いなものを嫌いだと言ってはいけないというのは本当か?

人間が何かを好きになることが自然であるように、何かを嫌いであるということもごく自然な感情だ。ぼくにも嫌いなものはいっぱいある、ゴキブリは嫌いだし、ムカデも嫌いだし、納豆も嫌いだし、シソも嫌いだ。それにどんなに好きになろうと頑張ってみても、なんとなくこの人は嫌いだなという人間も存在する。

確かに注意深く生きようとするならば、「ぼくは納豆が嫌いだ」と言うのは慎むべきだといえよう。納豆は納豆屋さんの人が心を込めて一生懸命作っているのだろうし、ぼくの発言が納豆屋さんの耳に入り深く傷つく可能性が0でないのなら、本当に優しい人なら「納豆が嫌いだ」なんてそれが本当であっても言うべきではないと考えるだろう。同様にシソ農家の人を傷つけないために「シソが嫌いだ」という発言も慎むべきである。

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またゴキブリとかムカデとかは、嫌いな人が大多数だと思うので嫌いだと言ってもいい気がするが、思慮深く慈悲深く生きるのであるならば、そのような多数決で物事を考えるのはよくないだろう。ゴキブリやムカデが嫌いな人は世の中の大多数であっても、すべてではないからだ。ほんの一握りの人間がゴキブリやムカデを好きでいる限り、少数派の彼らの心を傷つけないために、やはり嫌いだと発言すべきではない。

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しかしこのように考えてみれば、嫌いだと言わない思慮深く慈悲深い生活は、なんと生きづらいものだろうか!

 

・人間を嫌いだと言うこと

嫌いな人間に関して言えば、確かに嫌いな人がいるからといって安直に「あの人が嫌いだ」とは言うべきではない。ましてやその人が目の前にいるのに「あなたが嫌いです」などと堂々と発言しようものなら、おかしな人格を持っている人だと疎んじがられてしまうだろう。しかしその人がいないところで「あの人が嫌いだ」と言えば、陰口を言う人間だと判断されて自分が性格の悪い日だと認識されてしまう可能性も出てくる。嫌いな人を嫌いだと発言するのは、どうしても言いくて我慢できないときに限り、信頼できる人にだけ言うのが望ましいだろう。

ぼくの知り合いには、相手が好きだと言っている人や物に対して「俺はそれが嫌いだ」と堂々と言ってのけるような種類の人間がいたが、ぼくは彼の人格を大きく疑っていた。どうしてわざわざ目の前の人が心から愛していると言っているものに対して、「嫌いだ」と聞かれてもいない自らの感情をぶつけ、それを愛している人の心を損ねたり傷つけてしまう必要があるのだろうか。どうしても議論したい信念の通った物事であるならば話は別だが、その人は思いつきでただ愛している人をけなしたいだけだったのだ。

優しき人だけが大いに傷つき、浅はかで思慮の足りない者だけが好き勝手に「嫌いだ」と叫ぶことのできる、いたたまれない世界だ。

 

 

・好きと嫌いは同じ言葉

嫌いだという感情は、好きだという感情を知ることから始まる。好きだと感じるからこそ、嫌いだとも感じられるのだ。好きと嫌いは表裏一体であり、真実からいえばそのふたつは同じものである。嫌いだと言ってはいけないということは、すなわち好きだと言ってはいけないことをも意味する。

ぼくが長い方が好きだといえば、短いものは”より嫌い”となり、短かきものは傷ついてしまう。ぼくがあなたが好きだといえば、あなたではない人は”より嫌い”となり、誰か悲しむ人も出てくる。人が傷つくことが悲しくて、人を悲しませることが苦手で、嫌いだと言えないとしたら、好きだとも言えなくなってしまう。ぼくたちはこの世界で、何ひとつ言葉を言えなくなってしまう。自分を表現できずにすべてを隠さなければならなくなってしまう。

 

 

・嫌いなものを嫌いだと言おう

本当に他人の気持ちを思いやって生きるなら、ぼくたちはこの世界で何も言えなくなってしまう。心から他人のことを思いやってしまえば、今度は自分自身が人間らしく生きることを失くしてしまう。もういっそ、嫌いなものを嫌いだと言ってもいいのではないだろうか。嫌なことを遠慮せずにNOだと相手に押し付けてもいいのではないだろうか。

最低限人格を否定されない程度に、人としての配慮を怠っていないのであれば、もはや嫌いなものは嫌いだと叫ぼう。嫌なものは嫌だと断ろう。そして対立意見が出てきたならば、議論し、争い、その先にあるお互いにとってふさわしい答えを導き出そう。自分はこれが嫌いなのだと主張できることで、自らの生命の感性を世界に向かって表現することで、曖昧に終わって諦めていた違和感を滅ぼしてしまおう。

嫌いなものを嫌いだと主張できることで、嫌なものは嫌だと潔く断れることで、自分の心が何を求めているのか、何を好きだと感じ何を信じることに憧れ、何のために生まれてきたのか、その輪郭が次第に見えてくるのではないだろうか。嫌なものを嫌だと断れることは、あなたの入口でもあり、出口でもあったのだ。

 

 

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