人は眠りたいときに眠ってはいけないというのは本当か?

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眠るということは人に幸福をもたらす。

人は眠りたいときに眠ってはいけないというのは本当か?

・ぼくは眠ることが大好き
・眠るという行為は悪意に侵食されている
・眠りたいときに眠っていはいけないというのは本当か?
・思考停止の常識たちに悪意を貼り付けられた者たちへの救済を

・ぼくは眠ることが大好き

ぼくは眠ることが大好きだ。眠ることが嫌いな人など、この世にいないのではないだろうか。

眠りは人間や動物が、快適に生活する上でなくてはならない行為だ。もしも全く眠ることができなければ、ぼくたちは1日で疲れ果てた体力を回復することができずに健康が脅かされることになり、やがては死にさえ至ることだろう。どんなに疲れていても眠れば心と体が回復して、翌日を困難なく生き長らえることができ、そのような日々の連続が健やかな人生を形作っていくからこそ、眠りという行為は重要視され動物の”三大欲求”にまで取り入れられているのだろう。

ぼくは1日のうちにたとえ嫌なことが起こったとしても、眠ればすっかり忘れてしまって心の整理がついて次の日を生きていけるので、眠りは体力の回復という意味の他にも、心の救済という役割があるのではないかとしみじみ感じてきた。眠りとはなんて尊い役割に満たされていることだろう!眠りとはぼくたち人間にとってなくてはならぬ行為であり、健康で幸福な人生を生き抜いていくために与えられたかけがえのない要素のひとつだ。

 

 

・眠るという行為は悪意に侵食されている

しかしそのような「眠る」という重要な行為も、そんなに人間によって褒められている気配はない。よく眠るということは健康な人生にとってなくてはならない行動のはずなのに、なぜかよく眠るということは”怠け者”の象徴とされ、昼に眠っていると注意されたり叩き起こされたりする場面をよく目撃する。

最も典型的な例はドラえもんののび太くんで、昼寝をしていると「また昼寝ばっかりして!」とドラえもんに叱られたり、「宿題もしないで!」とママに怒鳴られたりする。昼寝をしたり安らかに眠るという行為は、のび太が自分自身の疲労を回復するために必要な時間だと見なされず、のび太の怠け心の象徴、呑気で真剣に人生に向き合っていない心の象徴として描かれているような気がする。眠る暇なんてあるんだったら勉強とかスポーツとか、他に生産的な活動があるだろうと言わんばかりだ。

またクレヨンしんちゃんの野原みさえは、主婦で好きな時によくお昼寝していることをしんのすけに指摘され「だから三段腹になるんだぞ!」と言いがかりをつけられてからかわれたりしている。ちびまる子ちゃんのまる子も昼寝していると「またぐうたらして!」とお母さんに常に怒鳴られている。忍たま乱太郎のしんべいなどは、眠ることが大好きで寝ようと思えばいつでもどこでも3秒で眠れることを自慢してみんなから呆れられていた。

いずれにしても眠りたい時によく眠るというのはいいことをしているとは決して見なされず、どちらかというと逆に叱られる対象となったり、怠け者だと呆れられたり、他にやるべきことがあるだろうと見下されたりして、眠ること=悪いことのような描き方をされていることが多いような気がする。アニメの中だけではなく実際の人間の生活においても家でお昼寝していると、赤ちゃんでもない限り、昼からぐうたらと怠けているなんてけしからんと起こされる確率は高いだろう。

 

 

・眠りたいときに眠っていはいけないというのは本当か?

しかし、寝たい時に眠るというのはそんなにも悪いことなのだろうか。自分の脳が眠りたいと自分自身に指令を下しているのだから、その本能や直感に大人しく従って眠っている、それが悪いことだと見なされるのはどうしてだろう。

自分の脳が眠りたいと自分自身に訴えかけているということは肉体に疲労が溜まっているとか、脳が酷使されすぎて休みたいとか、それなりのよそから見ているだけでは決してわからない自分のために眠らなければならない何らかの理由があるのではないだろうか。自分の脳が必要だから休め、眠れと自分自身に命令しているのに、その内なる声や本能や直感に大人しく従って眠っていると怠けているとか、サボっているとか、やるべきことをやっていないけしからん奴だと見下されてしまうのはどうしてだろう。

自分が眠りたいと感じた時には、特に重要な用事がない限り眠ればいいのではないだろか。ちょっと眠って疲労を回復して、その後でやるべきことをやれば全てオッケーではないだろうか。眠る=悪だと決めつめ、眠らないまま疲労を蓄積した状態で無理して労働して苦痛を感じたりミスをしたりするよりは、自分の本能が眠れと命じているのだから自分は今眠るべきなんだと潔く諦め、眠りに就いた後でまた回復した脳を用いて効率よく労働したり活動すればいいのではないだろうか。

 

 

・思考停止の常識たちに悪意を貼り付けられた者たちへの救済を

この世の中には自分自身で思考せず、とりあえずなんとなく空気がそうなっているから悪だと決めつけられていることがあまりにも多い気がする。眠るという本来生命にとって重要な行動もそうだし、楽をしてはいけないとか、労働しないことは悪いことだとか、他人に迷惑をかけてはいけないだとか、何も思考せずに反射神経のように非難したり見下したり悪だと見なされる行為がなんて多いことだろう。本当にそれが悪いのか他人の雰囲気や空気を無視して、もっと自分自身で深く思考し考えるべきではないだろうか。

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非難される物事の多くは、実はどうでもいい取るに足らないことばかりだ。そういう種類の非難は、自分はきちんと我慢しているのに他人だけ我慢しないで自分自身に正直に生きるなんてずるいというくだらない嫉妬心から生じていることがあまりにも多い。自分自身は善良に我慢しているわけではなく、ただみんながそうしているからという理由で思考停止して空虚な我慢の世界に生きているくせに、人生において思考を発動させ自分の生きた思考を信じ、みんなとは異なる冷たい氷の世界に死を覚悟で飛び込んでいる世界の人々に向かって、”多数派”という偽りの正しさのシールドの後ろから安全に非難を浴びせるなんてこんなに卑劣なことはない。

ぼくたちはそんな生ぬるい偽物の安全と正しさを伴った思考停止の心たちと、必死に向き合ってこれからも対抗すべきではないだろうか。この世で理不尽に悪に仕立て上げられてしまった可哀想なものたちを救済し、ただ本来の姿へと帰していく必要があるのではないだろうか。人間たちに思考停止で悪だと罵られているものたちの中に、本来は神聖なもの、尊きものたちがどれほど隠されていることだろうか。愚かな心により悪を塗りつけられた者たちへ、慈しみの浄化の光が降り注ぐためにこの命よ突き進め。

 

 

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