「守るべきものがあるからこそ人は強くなれる」
鬼滅の刃の兄弟の絆を徹底考察!守るべきものがあれば人は強くなれるというのは本当か?
・アマゾンプライムで初めて「鬼滅の刃」を鑑賞した
・炭治郎は守るべき妹の禰豆子がいるからこそ強くなれる
・「竈門炭治郎のうた」
・守るべきものがなければ強くなれないというのは本当か?
・賞賛される他人を守るストーリー、価値がないと卑下される自分を守るストーリー
・この世界の誰もが、尊い自分を守ることで必ず強くなれる
目次
・アマゾンプライムで初めて「鬼滅の刃」を鑑賞した
先日「鬼滅の刃」というアニメをアマゾンプライムで1クール全話鑑賞した。子供たちに大人気だというから見てみたが、可愛いキャラクターからは予想もできないほど、あまりにも血みどろな物語なのでびっくりした!確かに面白いけれどこんなに毎回血が出てきたり、首とが肉体が引き裂かれたりして、子供達は怖くないのだろうか。こんなの見て夜中トイレに行けなくなってしまうのではないかととても心配だ!
・炭治郎は守るべき妹の禰豆子がいるからこそ強くなれる
「鬼滅の刃」の物語は単純明快であり、主人公の炭治郎が人を食う鬼たちを次々にやっつけていくという内容だった。山の中で家族みんなと幸福な生活を営んでいた炭治郎だが、ある日町に炭を売りに行っている間に母親や兄弟などほとんどの家族を鬼に食い殺され、唯一生き残った妹の禰豆子も鬼の血が入り込み鬼になってしまった。鬼に家族と幸せな生活を奪い取られた悔しさと、鬼を倒して禰豆子を人間に戻す方法を知りたいという思いが、炭治郎の鬼をやっつける行動の原動力となっている。
「鬼滅の刃」の物語の根底に常に横たわっているのは、炭治郎が禰豆子を守りたいという強い兄弟愛である。炭治郎がまさに少年漫画の主人公らしく常に積極的に前を向き強くなれるのは、禰豆子をしっかり守り、鬼になった禰豆子を人間に戻したいという確固とした信念と目的があるからだ。炭治郎と禰豆子の兄弟の絆があるからこそ「鬼滅の刃」は人々を励ますことのできる感動的な物語として成立している。
お兄ちゃんが妹を守り救うために邁進するという物語は、もしかしたら恋人の女性を守るという物語より美しいものかもしれない。なぜなら恋人の女性を守るという行為なら、守り抜いた先に付き合ったり結婚したり性行為をしたり子供を作ったり家族を作るという男にとって得する出来事が待ち構えているが、妹を守るという行為の先には明確な利益が見当たらない。守り抜くという理由が見当たらないとき、得をしたり利益を得たいから守るのではないのだと感じられるとき、損得勘定を計算することのない家族としての純粋な優しい心や慈悲の心に触れるとき、ただ相手の幸せだけを願って守り抜くという無償の愛の姿を見るとき、人の心は感動に打ち震えるのかもしれない。
いずれにしても「守るべきものがあるからこそ人は強くなれる」という物語の展開は、健やかで爽やかな少年漫画主人公の人物像として極めてふさわしい。「守るべきものがあるからこそ人は強くなれる」という言葉の響きはいかにも美しいし、模範的だし、世の中の人々にも受け入れられやすく人気を得られるだろう。炭治郎のように守るべきものがあれば人は成長するし、進化するし、強くなれるというのは本当なのだと「鬼滅の刃」の物語を見ていると納得させられる。「竈門炭治郎のうた」にもそのような哲学が見て取れる。
・「竈門炭治郎のうた」
”目を閉じて 思い出す
過ぎ去りし あの頃の
戻れない 帰れない
広がった 深い闇
泣きたくなるような 優しい音
どんなに苦しくても
前へ 前へ 進め 絶望断ち
失っても 失っても 生きていくしかない
どんなに打ちのめされても 守るものがある”
・守るべきものがなければ強くなれないというのは本当か?
それでは守るべきものが特に見当たらないような人は、どのようにして強くなればいいのだろうか。炭治郎のように家族が鬼に食い殺されるという絶望的な運命に導かれ、妹という守るべきものを偶然手に入れられたのならば強くなり成長するのに都合がいいが、そのような運命は甚だ稀だろう。そもそもぼくたちの住むこの世界には鬼なんて存在しないし、家族を皆殺しにされるというような絶望的な運命もほとんどあり得ない。アニメや漫画の世界ではないこの現実世界に生きるぼくたちにとって、誰もが「守るべきものがあるからこそ人は強くなれる」と胸をはって前向きに生きるためにはどうすればいいのだろうか。
この世界には運命的に守るべきものに巡り会える人もあれば、守るべきものなど見出さずに孤独に人生を歩む人もあるだろう。それならば守るべき者に巡り会える人だけはアニメの主人公のように強く成長することを許されて、守るべき者など特に用意されていない者は強くなれずに虚しく終わるのだろうか。
・賞賛される他人を守るストーリー、価値がないと卑下される自分を守るストーリー
ぼくが思うに、この世の全ての人間が必ず運命的に持ち合わせている「守るべきもの」がたったひとつだけある。それは「自分自身」という人間だ。
誰もが自分というものを認識し、自分というものと共に人生を歩んでゆく。しかし守るべきものが自分だなんて、馬鹿馬鹿しいと感じる人もあるだろう。普通「守るべきものがあるからこそ人は強くなれる」とカッコよく宣言する場合、この「守るべきもの」というのは他人のことである。人間は自分ではない誰か守るべき”他人”に巡り会うことによって、成長し強くなるというストーリーが始まるのだと考えがちだ。「鬼滅の刃」の物語の中でも、主人公の炭治郎が妹の禰豆子という”他人”を守るべきものだと見出すことから勇敢な物語は始まる。
自分を守るだけだなんてとても虚しい、人間は”他人”を守ってこそ価値のある人生が始まると、世の中では考えられがちだ。実際に他人を守る物語は「鬼滅の刃」のように売ることのできる物語として立派に成立しているのに対し、自分を守るだけの物語なんて聞いたことがない。自分を守るだけの物語なんて面白くなさそうだし、売れなさそうだし、誰も聞きたがらないだろう。この世では「鬼滅の刃」のように他人を守る物語こそ素晴らしく価値があり、自分を守る物語など見る価値がないと打ち捨てられてしまう傾向がある。しかし”他人”を守ることと”自分”を守ることは、本当にそんなにも真逆の評価を受けるほど異なるものだろうか。
・この世界の誰もが、尊い自分を守ることで必ず強くなれる
他人を守るというストーリーも、自分を守るというストーリーも、「ひとりの人間を守る」というストーリーとして考えれば、決して違うことはない。自分だろうが、他人だろうが、「たったひとりの人を守り抜く」という観点からすれば全く同じものであり、自分を守ろうとするストーリーでも、他人を守ろうするストーリーでも、その脈絡の中で強くたくましく成長できるというのなら、どちらも価値のある物語ではないだろうか。
世の中ではとかく人間たちは「自分」というものと「他人」というものを分けたがる。自分を守るということは卑しく、惨めで、自己中心的だと見なされる一方で、他人を守るという物語は美しく、健やかで、素晴らしいと賞賛されることは滑稽だ。なぜなら自分も他人も同じひとりの人間であり、「ひとりの人間を守る」という観点からすれば自分を守る物語も、他人を守る物語も同一だからだ。「自分」だとか「他人」なんて人間が脳内で勝手に仕分けしているだけの幻影だというのに、その幻影に踊らされて自分を守ることは卑しい、他人を守らなければいけないと人々はうろたえ、心を惑わせている。
人間は「自我」を持ち合わせているのだから、自分を大切にしなければならないと感じることは当然である。この意識は、この自分という存在を守るという大切な使命を担っているのだ。それゆえに誰だって自分を可愛がるし、自分を甘やかすし、自分を優先するし、自分を大切にするし、自分を守る。それこそがこの意識の最大の目的であり、最大の使命である。それなのに人間の社会が、自分を守ることは卑しく、自分を犠牲にしてでも他人を守ることこそが素晴らしいのだと教え込むから、ぼくたちはそのねじれやギャップに苦悩し、どのように生きていけばいいのかわからなくなる。
しかし真実は「自分」も「他人」もないのだ。自分を守り抜くことだって、他人を守ることと同じくらい立派なことだ。なぜならたったひとりの守るべきものを守っているという観点において、そのふたつは同一だからだ。「鬼滅の刃」の炭治郎のように他人を守り抜くことが立派だと人の世で賞賛されているのなら、守るべき他人が見当たらない人であっても、自分自身を守りながら立派に生きて成長しているだけで、価値ある人生だと賞賛されるべきではないだろうか。
守るべき他人なんか見出せなくても、この世で生きている全ての人は、自分という尊い存在を守り抜くことで、必ず強くなれる。そして自分を徹底的に守り抜いたその先では、きっとあらゆる他人を守り抜く世界へとつながる。