自分は素晴らしい唯一無二の存在だと胸を張って言おう。
成績学年トップや高学歴や高収入は自慢になるから他人に言わない方がいいというのは本当か?
・ぼくは中学高校と6年間、ずっと成績学年1位だった
・成績学年トップや高学歴や高収入は、自慢になるから他人に言わない方がいいというのは本当か?
・他人より優れている人々は、世間で嫉妬されないために自分自身を自由に表現できない
・努力して成功した人が自由に自分を表現できない世界は正しいのか?
・ぼくは自分の当たり前の日常をブログに書くだけ
・誰もが自分は特別な存在だと、ブログを書くことによって気づかされる
目次
・ぼくは中学高校と6年間、ずっと成績学年1位だった
ぼくは中学高校と6年間、ずっと成績が学年1位だった。そんなぼくを見ておばあちゃんが注意のためにこう言った。
「他の人があの子は偉いとか頭がいいって勝手に噂して褒めるのはいいけど、自分から自分は偉いとか学年トップとか言ったらあかんねんで。そういうのは自分から言うんじゃなくて他人に言われて価値があるんやから。そういう噂はどうせ他人が勝手に広めてくれるものやから自分からは何も言わない方がいい」
このような感性は日本人として生まれ育ったならばなんとなく理解できる感性だろう。たとえ自分の成績がよかったとしても、それを自分で他人に言ってしまえば「自慢話をするやつ」「嫌味っぽいやつ」「傲慢なやつ」として嫌われたり見下されたりする傾向があるというのは、日本社会で生きていれば簡単に察しがつくだろう。現に日本の子供たちがよく見るアニメの代表であるドラえもんでも、自慢話ばっかりしているスネ夫は嫌われる傾向にある。
たとえ自分自身にものすごく価値がある要素を持ち合わせていたとしても、それを自分から言ってしまうのは野暮であり、他人の間で噂されてこそ価値があるのだという美徳の感性は、日本人の心の底に共通して横たわっていると思われる。ぼくもそれを察知できないほど鈍感な子供ではなかったので、もちろん自分から自分は学年1位だと言うこともなかったが、そういうことはおばあちゃんの言う通り本当に友達が勝手に噂を広めてしまうのですぐに有名になった。また年に1回の終業式では、成績優秀者としていつも壇上に賞状を取りに行っていたので、自分から言わなくてもぼくが成績トップだというのは常識のようになっていた。
・成績学年トップや高学歴や高収入は、自慢になるから他人に言わない方がいいというのは本当か?
このように自分は優れた要素を持っているということを自ら言ってしまうのは野暮だからよくないという感性は、これから先も人生の中でずっと繰り返されることとなる。例えば成績がとても優秀だったから国立医学部に入ったこともや高学歴であることももちろん自分から言わない方がいいし、その結果として医者になってたとえ高収入になったとしても絶対にそんなことを自分から他人に言いふらすべきではない。それは他人の嫉妬を招き、やきもちを焼かせ、他人に嫌われる確率を上げてしまうからだ。
わざわざ他人から嫌われるような行動を取るよりも、みんなと仲良くしながら生きていく方が楽しいに決まっているので、成績がよくても、高学歴でも、高収入でも、他の人よりも優れている要素がたくさんあろうとも、人はそれを隠しながら自分は優れてなんかいませんよという顔をして生きていくことが、世渡りということになっている。
・他人より優れている人々は、世間で嫉妬されないために自分自身を自由に表現できない
しかし自分が学年トップであったり、高学歴であったり、高収入であったり、社会的な地位が高いということを決して自分から他人に言ってはならないという風潮は、そのような人々は自分の一部を自由に表現できない、すなわち自分自身を表現することを制限されていることを意味する。果たして優れている人々が、自分を表現することを制限されてもいいのだろうか。
ぼくは6年間ずっと成績トップだったからわかるが、自分にとって学年トップというのはもはや優れている要素でもなく、それが”当たり前”なのだ。ずっと成績が1位だと、もはやそれで自分が素晴らしいなんて思うようなこともなく、「あ、また1位か、いつも通りだな」という風な感想になってくる。それは自分ばかりではなく、周囲の友達もぼくが学年1位であるというキャラクターが成り立ってしまっていることを知っているから「あ、また水色が1位なのか。いつもと同じだな」という雰囲気となり、誰もそれを驚かなくなる。人間は慣れていく生き物なので、このような現象は当たり前と言えよう。本当にいつ何時でもずっと学年トップだと、それは優れているということではなく、ただのキャラクターや当たり前や常識のようになってしまうのだ。
学年トップというのは、もはや自慢ではなく、ただのぼくの日常の一部としてあるだけだった。つまりぼくの中で学年トップというのは、スーパーマーケットに行って野菜を買ったとか、話題の映画を見てきて面白かったとか、河原の散歩道を歩いて気持ちよかったとか、そういうただのありふれた日常の話と同じことだったのだ。
しかしぼくは自分が学年トップであるということを自分からは決して話しはしなかった。それは日本人の美徳の感性に反することをきちんと察知していたからだ。それでいいじゃないかと思われるかもしれないが、学年トップが当たり前の日常だったぼくにとって、それは昨日スーパーに行ってきたということすら言ってはならないというのと同義であり、おかしな違和感を感じていたのも事実である。自分の一部のことや、自分の当たり前のこと、自分の日常のことを、どうして自分だけは話してはいけないのだろうという不思議な気持ちだった。
同じようなことは高学歴、高収入という分野にも当てはまる。例えば医学部という世間からいえば高学歴であっても、当の本人からしてみればそれは当たり前の日常である。年収1000万円稼いでいたとしても、そんな給料をいつももらっていれば当人にとってそれは高収入ではなくただの普通の収入である。にもかかわらず高学歴の人も高収入の人も、何となく社会の人間たちを会話するときには、自慢になってしまうかもしれない、嫉妬されてしまうかもしれない、傲慢になってしまうかもしれないと気を配りながら、自分の「日常の話」を制限されできずにいるのだ。果たして優れた人々が平均的な世間に気を遣うあまり、自分の日常や普通のことまで話すのを我慢しなければならないというのは本当だろうか?
・努力して成功した人が自由に自分を表現できない世界は正しいのか?
そもそもなんで優れた人々が、世間に合わせて自分の普通や日常について会話するのをわざわざ我慢しなければならないのだろうか。それっておかしな現象ではないだろうか。優れているということを多少なりとも才能があって、努力もしたということだ。努力して頑張っていい成績を残したり、いい収入を得たりした人の方が、自分よりも努力しなかった可能性の高い世間一般の人々に合わせて自分の表現を制限されるなんて、どう考えても理不尽である。
本来ならば頑張って努力したのだから、他の人よりも多くの表現の自由を与えられてもよさそうなものではないか。しかしこの国で努力して成果を残して待っているものは、世間に合わせて嫉妬されないように自分の”日常”や”普通”を隠して、密やかに生きるべきだという同調圧力である。どうして頑張って努力した方が、制限されなければならないのか意味不明である。本来なら制限されるなら、怠けて努力しなかった方の人間ではないだろうか。
・ぼくは自分の当たり前の日常をブログに書くだけ
ぼくはこの「みずいろてすと」というブログで、「学年1位」だったことや、1日バイトしただけで10万円もらえる「医者に収入」や、「医学部」のことについても包み隠さずに語っている。それは自慢したいわけではなく、それがぼくのただの普通や日常だからだ。それ以上でもそれ以下でもない、昨日スーパーに行ってきましたというような日常的な風景の1コマを文章として表現しているにすぎない。それを自慢だととらえるなら、それはぼくの問題ではなく、それを自慢だと感じるその人自身の心の問題である。
・誰もが自分は特別な存在だと、ブログを書くことによって気づかされる
また「学年1位」や「1日10万円もらえる」というのは、世間では”珍しい”ことなのでぼくはそれをブログであえて表現しているという側面もある。ブログが多く読まれるためには、グーグル検索された時に自分のページが上位に来ることが重要だ。ありふれた誰にもでも書けるような内容を量産するよりも、自分にしか書けない自分独自の特別な珍しい記事をひとつ書く方が、よっぽど有益だし価値も大きい。
例えば「東京観光」をテーマについてブログを書こうとしても、東京の観光なんて誰でもできるし誰でもやっていることだからどんな人でも簡単に記事にできるし、東京の観光についての日記を書く人も星の数ほどいるだろうから、その中で自分の東京観光のブログのページを独自の特別な誰も書けないようなものに仕上げ、さらにそれをグーグル検索で上位にまで持って来るのは至難の技だと言える。
一方で「学年1位」という経験を持つ人はそう多くはない。学年1位というのは何百人もいる学年の中で1人しかいないのでそれだけで珍しい特別な存在になり得る。もちろん学年3位とか、学年50位の人も1人しかいない特別な存在だが、だからと言って学年3位の人とか、学年50位の人についてグーグル検索する人は皆無だろう。しかし「学年1位」となれば話は違う。みんな「学年1位」の人はどんな気持ちなのだろうとか、「学年1位」の勉強法を知って自分も学年トップになりたいとか、様々な思惑を持って「学年1位」とグーグル検索するのだ。たくさんの人が「学年1位」と検索する一方で実際に自分が「学年1位」だという経験を持ち、その気持ちや方法論を的確に表現できる人はかなり少ない。つまり「学年1位」だった人にとって「学年1位」という特別な経験は、読まれるブログ記事を作成する絶好のチャンスなのだ。
何をテーマにブログを書くかはもちろん自由だが、読まれるブログを書こうと工夫するためにはしっかりと自分自身を見つめ直す必要がある。つまり自分はどんな人間で、どういうところが他とは違い特別で、どんな独自の経験や経歴を持ち、他にはどんな優れた要素があり、それを的確に表現できる能力がきちんと備わっているのか、ブログはぼくたちに問いかけるのだ。
人間は誰だって特別な存在だ。しかしどこがどう特別なのかを見つめ直す機会が人生には少なく、ただ社会の部品となって自分には特別なものなんて何もないと虚しい気持ちに襲われながら一生を終えていく人も多いだろう。そんな人はブログを始めて自分自身としっかり向き合ってみるべきだ。ブログを書いていると、ぼくたちは誰もが代わりのいない特別な存在であることに気づかされる。そして自分は特別で唯一無二の存在だと気づいた者だけが、他の人に作れない読まれる記事を書くことができるのだ。それは上で長々と述べてきた「自慢」という浅はかな観念からはるかに逸脱した、次元の違う神聖な絶対感へと通じる。