自分を大切にすることよりも、他人を大切にすることの方が素晴らしいというのは本当か?

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自分を大切にする人は、他人を大切にする人と全く同じほど尊敬されるべきだ。

自分を大切にすることよりも、他人を大切にすることの方が素晴らしいというのは本当か?

・自分を大切にすることよりも、他人を大切にすることの方が素晴らしいというのは本当か?
・自分を大切にすることは、他人を大切にすることと同じくらい尊い生き様だ
・ぼくたちは誰もが自分のことを最も優先させる運命を背負った悪人だ
・人間社会が自分を犠牲にして他人を思いやるべきだと人々に植え付けてくる理由
・他人を思いやる人間の根本には、果てしない自分への思いやりが広がっている

・自分を大切にすることよりも、他人を大切にすることの方が素晴らしいというのは本当か?

人間の世の中ではやたらと他人を思いやり、他人を大切にすることばかりが重要視される。例えば自分を犠牲にして他人を助けたり、他人を守ったり、他人の役に立ったりする行為はとても素晴らしいと、人々から大いに賞賛される傾向にあることに疑いはないだろう。映画やドラマやアニメの物語も基本的に「他人を助けることは素晴らしい」「他人を守ることは模範的だ」「他人を大切にする生き方は人間として真っ当だ」という美意識の元で、見る者の感動を誘おうと構成されている。

一方で自分を大切にすること、自分を守りながら生きるということは、どちらかというと人間としてふさわしくない生き方として見なされていることが多い。他人よりも自分を優先して、自分を大切にして生きようとすれば、なんて思いやりのない奴だ、なんて自己中心的で自分勝手な奴だと、人間たちから非難の声を浴びせかけられるだろう。「私は他人のために生きているのだ」と主張すれば世の中では人格者だと尊敬されるのに対して、「私は自分のために生きている」と主張すればなんてくだらない奴だと見下される可能性がかなり高いだろう。

しかし本当に世の中が思い込んでいるように、自分を大切にしながら生きることは悪いことで、その逆に他人を大切にしながら生きることこそ絶対的な正義なのだろうか。

 

 

・自分を大切にすることは、他人を大切にすることと同じくらい尊い生き様だ

究極的に考えるならば、自分を大切にしながら生きることも、他人を大切にしながら生きることも本質は何ら変わらない。それは最終的には「1人の人間を大切に思いながら生きる」という生き様に帰着するからだ。自分というのも1人の人間に過ぎないし、他人というものもただの1人の人間に過ぎない。

自分を大切に思いながら生きることも、他人を大切に思いながら生きることも「1人の人間を大切にする」という観点から言えば、全く同じような生き様を描いていると言えるだろう。この1人の人間というものが、自分であるのか他人であるのかが、そんなに重要な違いなのだろうか。

人間世界はやたらとこの1人の人間が自分であるのか他人であるのかを重要視し、執着し、1人の人間が自分であればその生き様を非難攻撃し、1人の人間が他人であれば模範的だと賞賛する流れがもはやお決まりとして成立しているが、それは本質を見誤った迷妄だと見なすことができるだろう。

1人の人間を大切に守り抜こうと覚悟している時点で、既に尊敬されるべき立派な生き方ではないだろうか。その1人の人間が自分であるか他人であるかで、攻撃するか賞賛するか対照的に態度を翻そうとするなんてお門違いも甚だしい。自分であろうと他人であろうと、1人の人間を大切に守り抜こうと必死に生きている時点で人間として美しい生き様だ。自分を大切に思いながら生きることも、他人を大切に思いながら生きることも、本質的には同じ生き方だし、どちらも同じくらいかけがえのない価値を持った生命の表出だ。

 

 

・ぼくたちは誰もが自分のことを最も優先させる運命を背負った悪人だ

ぼくたち人間は自己を持って生きている。誰もが自分を自分だと認識しながら生きているのだ。それはすなわち、自分という存在を誰よりも大切にし、生き延びさせなければならない使命を持っているということを意味する。それゆえに他人よりも自分を可愛がったり、他人よりも自分を優先したり、他人よりも自分を大切にするということは、至極当たり前だということだ。

自分よりも他人を何でもかんでも優先していては、弱肉強食のこの世界で生き残ることは不可能となるだろう。たとえば世界には自分よりもお腹を空かせている子供たちがたくさんいるのだからと他人を優先し、他人を思いやり、他人に食べ物を残してやろうと自分は我慢して何も食べずにいたら、やがて空腹で餓死してしまうだろう。また牛さんが可哀想だけ、豚さんが可哀想だ、鳥さんが可哀想だ、キャベツさんが可哀想だ、にんじんさんが可哀想だ、卵さんが可哀想だなどと、やたらと他の生命を思いやっていては何も食べることができなくなって生き延びることは不可能だろう。

ぼくたちは食べ物を食べないと生きられない。食べ物というのはそのほとんどが他の生命の死体だ。ぼくたちはどんなに正しい顔つきをしてまともな様相をしながら生きていても、結局は他の生命を毎日殺しながらそれを摂取し生き延びている悪人に過ぎない。牛よりも自分の方が生きる価値があると潜在的に思い込んでいるから、ぼくたちは平気な顔をして美味しく牛肉を食べられるのだろう。誰もがそんな風にして他の生命を犠牲にし、他の生命を奪い取り、他の生命を殺した代わりに自分の生命を生かし続けているのだ。残酷で、無慈悲で、図々しく、しぶとく、厚かましく、他の生命を殺して自分が代わりに生きることが平気だと感じられる生命だけが、この世に生き残り続けることを許される。

この世に生き延びている限り全ての人間は、他者よりも自分を優先し、自分を可愛がり、自分だけを大切にしてきたことは火を見るよりも明らかだ。にもかかわらず「自分よりも他人を大切にすることは素晴らしい」と世の中のほとんどの人間が信じ込んでいるとは何という皮肉に満ちた光景だろう。他者よりも自分を優先し続けてきたから、今もしつこくこの世に生き残り続けているというのに、そのような生命のどうしようもない絶対的な運命から目を逸らして、都合よく綺麗な理想の絵空事だけを並べるとはその盲目とふてぶてしさが羨ましい。

この世では、自分はまともだというような顔つきをして生きている人間ほど、怪しさに満ちている。

 

 

・人間社会が自分を犠牲にして他人を思いやるべきだと人々に植え付けてくる理由

人間は誰でも自分を最も大切にし、自分を最も可愛がり、自分を守り抜くという使命に包み込まれている。それは人間だからというよりは、全ての動物、あるいは生命に共通した普遍的な運命と言えるだろう。それなのに人間社会から「自分よりも他人を優先して生きるべきだ」「自分よりも他人を大切にし、自分を思いやるよりも他人を思いやるべきだ」という自らの使命と矛盾した洗脳や植え付けを受けると、自ら思考する聡明さのない魂たちは戸惑い、どうすればいいのか分からなくなり、迷い、途方に暮れてしまうのではないだろうか。

人間社会が否応なしに「自分より他人を大切にすべきだ」と洗脳してくるのは、個人の幸福を踏みにじり、犠牲にし、その代わり人間集団の幸福を優先させやすいように人々の心をコントロールしたいからだ。人間社会の目的は、その集団を成長させることにある。集団を成長させたいのに、それを構成している個人が思い思いにそれぞれの幸福を追求しては統制が取れなくなってしまう。人間社会が望むことは、人間個人が自らの直感から見出される幸福の姿を追求することをやめ、自分のために生きることをやめ、ただただ思考停止し、他人やその拡大としての社会や集団や世間のための、都合のいいコントロールしやすい部品として動いてもらうことだ。「自分より他人を大切にすべきだ」という植え付けも、まさにその一環に他ならないのではないだろうか。

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・他人を思いやる人間の根本には、果てしない自分への思いやりが広がっている

他人を大切にすることは円滑な人間関係を築く上で重要なことだ。しかし他人を大切にするためには、まずその土台として、自分を大切にすることから始めなければならないのではないだろうか。すなわち自分を究極的に大切にすることを達成して初めて、他人を本当に大切にできるような人間になれるのではないだろうか。

今の人間社会では、自分を究極的に守り抜き、育み、大切にすることをきちんと達成する前から、道徳や正しさや常識という名の暴力によって、自分を犠牲にし他人を大切にしながら生きることを否応なしに強要される。しかしそのような他人への思いやりの根本には、本来あるはずの自分を大切にすることや自分自身への思いやりが欠如しているから、人々は違和感を覚え、困惑し、心は彷徨い、しかし自分は正しいふるまいをしているのになぜ違和感や欠乏感を覚えるのか突き止めることができずに、結局この世の真理に辿り着かないままで虚しく一生を終えてしまう。

ぼくがこの記事で言いたいことは、本当の意味で他人を大切にし、他人を思いやり、他人を助けたり守ったりしたいのならば、まずその前にやるべきことがある、それは自分自身をしっかりと守り抜き、自分自身をこれ以上ないほどに大切にし、可愛がり、匿い、育み、安心の中で成長させ、結果的に自分自身の魂を救済させなければならないということだ。それは自分自身の生命と人生の正体を見破るということにもつながっていく。

ぼくたちは自らと世の中に植え付けられたあらゆる迷妄や虚妄を打ち砕き、破壊し、焼きつくし、真理へと昇華させなければならない。そのためには常に内部に怒りの炎を燃やしながら、紀伊山脈の奥地に隠されている不動明王のように、必死の憤怒相をたぎらせる必要があるだろう。

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