自分の弟を「愚弟(ぐてい)」という人を見たことがありますか。
敬語・謙譲語の危険性!謙遜することが人として立派だというのは本当か?
・母ちゃんをバカにすることだけはゆるさねぇ
・日本語の敬語における謙譲の世界
・自分を見下し否定しなければならない残酷な謙譲の文化
・自分を卑下する謙譲語による言霊の問題
・自分の家族さえ否定することを強制する儒教と謙譲
目次
・母ちゃんをバカにすることだけはゆるさねぇ
ドラえもんのジャイアンは「俺のことをバカにするのはいいが、母ちゃんをバカにすることだけはゆるさねぇ!!」と言って怒ることがたまにある。これは「おまえの母ちゃんデベソ!」とジャイアンが友達にからかわれた時に生じる場面である。
また香港人が教えてくれた中国語で最も人をけなす表現があり、それは直訳すると「ファック・ユア・マザー」という意味らしい。中国語にはこのように人をけなす表現があり、それに比べて日本語は悪口が極端に少ないと聞いたと日本のことを褒めてくれた。
このように自分のお母さんや家族をけなされるのは、当然のことだが嫌なことで、時には自分がけなされるよりも悔しい思いをするようだ。ここには人が家族を大切にしたいという気持ちが表れているように思う。
・日本語の敬語における謙譲の世界
しかしよく日本語においては相手にへりくだった謙遜の表現をするために、自分の家族のことをけなした表現で呼ぶという上記とは全く逆の現象が見られる。
たとえば自分の息子のことを「うちの愚息が…」などとお父さんが言うのを見たことがないだろうか。自分の息子のことを“愚かな息子”と敢えて呼ぶことで、自分たちを落とし、相対的に目上の人を持ち上げるという謙譲の手法だ。ぼくの上司には自分の弟のことを「愚弟(ぐてい)」と呼ぶ人がいて、ぼくは今までそんな風に自分の弟を呼ぶ人を見たことがなかったのですごく驚いた。彼は韓国からやってきた在日の人だったので儒教的な気風が強く、上下関係を重んじるのでそのように弟を呼ぶのかもしれない。
このように家族を呼ぶときだけにとどまらず、「言う」を「申し上げる」、「食べる」を「いただく」、「行く」を「参る」という風に、自分の動作をへりくだった言い方にすることによって相対的に相手を持ち上げるという謙譲語の文化は、日本語の敬語において重要な役割を占めている。敬語には丁寧語と尊敬語と謙譲語があり、謙譲語はその3つのうちの1つである。
・自分を見下し否定しなければならない残酷な謙譲の文化
このように相手を尊敬しているということを示すために、自分自身のことや自分の家族のこと、自分の動詞さえわざわざ変形して、自分自身を敢えておとしめておいて相対的に相手を持ち上げるという謙譲の手法を取ることは、日本の社会人として一般常識であり、できて当たり前でありすべきものだと教えられているが、ぼくはこのような手法にものすごい違和感を感じる。
どうして相手を敬うために自分自身を陥れて、下げて、否定する必要なんてあるのだろうか。わざわざ相手のために自分をおとしめるなんて、今まで一生懸命に人生を生きてきた自分自身に失礼だとは思わないだろうか。控えめにするとか、謙遜して自分なんてダメな奴だと敢えて自分から率先して言い出すことが、日本という国において美しい精神の姿であるならば、ぼくはまったくその感性に賛成できない。
自分なんてダメな奴だ、自分なんておとしめられるべきだ、自分なんて否定されるべきだと思いながら生きていて、一体何が楽しいのだろうか。そのような謙譲の文化は日本の民族にとって害悪にさえならないだろうか。いくら相手を敬うためとは言え、必死に生き抜いた自分を否定するなんてぼくはしたくないと願ってしまう。人のことを見下すことはいけないことだと、小さい頃お母さんに教わらなかっただろうか。他人のことを見下してはいけないのに自分のことは見下してもそれが文化であるなんてちゃんちゃらおかしな話である。
このように、誰かを尊敬しようとすれば誰かが無残にもおとしめられることになるのだ。誰かが目上になるというシステムは、誰かが犠牲になってそれよりも相対的に否定されるべき相手を作りだしてしまうのだ。この世のすべての人間は誰もが必死に生き抜いてきた、尊敬すべき同士であり平等であるはずなのに、そのように否定されるべき人間を作り出す、見下される人間を作り出すというそのシステムゆえに、ぼくは敬語という文化が大嫌いだ。
みんなが誰も自分を否定する必要もなく、みんなが自分を肯定し褒めてあげられる文化の方がよほど素晴らしいではないか。誰かが偉くて敬われるために、誰かが犠牲になって相対的に否定され見下される文化なんて、その先に心の幸福なんてあるのだろうか。自分はダメや奴だ、自分は否定されるべき人間だと、言葉や態度によって思い込むことを強制されているなんて異常なシステムだろう。ぼくは誰もが自分自身を見下すことなく、自分自身に自信を持って胸を張り生きているような文化の方が素敵だと心から思う。
・自分を卑下する謙譲語による言霊の問題
言葉の表現くらいで自分を見下すことくらい大したことないじゃないか我慢しろよと思われるかもしれないが、日本人は古来より「言霊」を信じてきたのだ。自分はダメだと自分に言い聞かせればやがて本当にダメになるし、自分は否定されるべき人間だと言い続ければ本当に否定されるべき自信を喪失した人間になってしまうような気がしてならない。敬語・謙譲語のシステムはそのような観点からも非常に危険であるように思う。人が自分に自信を持って自分を愛しながら生きていく道を遮断しているように感じられるのだ。
・自分の家族さえ否定することを強制する儒教と謙譲
また、100歩譲って自分のことを見下すような謙譲のシステムがゆるされるとしても、自分の家族まで見下した表現をしなければならないなんて本当に異常な文化ではないだろうか。
みんな自分の子供が可愛いに決まっている。自分の子供の可愛さを自慢して優れていることを強調したいはずなのに、謙譲の文化がそれをゆるさない。ぼくたちは自分の愛する家族や子供のことでさえ、謙譲の文化の強制のもと、見下した表現で対応しなければならないのだ。なんて悲しい現実なのだろう。
たとえばぼくには8つ離れた弟がいるが、とても可愛いと思う。間違っても彼のことを儒教の信念にならって「愚かな弟」、「愚弟」などとは決して呼びたくはない。ぼくの弟はまったく愚かではないし、小さい頃からとても可愛いし、頑張って働いて生きているし、どんなに道を踏み外しても彼のことを「愚弟」なんて呼んではならないと心から思っている。そのようなことを強制するものが儒教の教えならば、そのような愚鈍で卑劣な教えなどすぐさまゴミ箱に捨て去って焼却場で燃やし尽くしたい気分だ。
誰だって自分の家族を大切に思っている。自分の家族は素晴らしい、自分の家族は優れているのだと、どうして胸を張って言うことがおかしなことだと思われるのだろう。むしろ見下さないといけないと強制されるのだろう。誰もが自分の家族を大切にし、誰もが自分の家族を誇りに思い、否定することや見下すことが強制されないような雰囲気を作り出すことが、健全な文化の作用ではないだろうか。
ぼくたちは与えられたこの生命を炎のように生き抜くにおいて、謙遜している暇なんてないだろう。