ぼくたちは人間集団の幸福のために生まれてきたのだろうか。
個人の幸福よりも社会の幸福の方が重要だというのは本当か?
・魚とかクラゲに赤ちゃんがたくさん生まれる理由
・”死んでもいい命”がこの世にはある
・”犠牲になる用の命”は人間にもあるのか
・人間の集団のために犠牲になる個人
・個人の幸福と集団の幸福の関係
・自我を持っている限りぼくたちは自らの幸福を追求する
・徹底的な個人の幸福の先に立ち現れる集団の幸福の真実
目次
・魚とかクラゲに赤ちゃんがたくさん生まれる理由
魚とか、エビとか、クラゲとか、海の中の生物は人間とは違い、一気にたくさんの子供が生まれるという。それは彼らの赤ちゃんがあまりに小さくて弱いために他の海の生物の餌になってしまい、大人になるまで育つのはごくわずかであるから、なるべく自分の種族が生き残り未来へ遺伝子を引き継げるように、あらかじめたくさんの子供を産んでおくという理由かららしい。
それを聞いてぼくたちは、ほーなるほどなー魚もクラゲもよく考えて生きているんだなぁ、遺伝子を残すためにみんな色々工夫して頑張っているんだなぁ、感心だなぁと他人事のように納得してしまう。少なくともこのストーリーを聞いて、違和感を覚えることは何もない。
・”死んでもいい命”がこの世にはある
しかしこれってよくよく考えてみれば結構残酷な仕組みではないだろうか。これが魚とかクラゲとか、なんだか心を持たなそうな生物の話だから実感が湧きにくいが、これがもし人間のように、魚とかクラゲとかもきちんと心や感情を持っていたならば彼らは何を思うだろうか。
魚とかクラゲの赤ちゃんだって、人間が誰しもそう思うように、この世にせっかく生まれてきたのだから幸福に楽しく生きたいと願うのではないだろうか。少なくとも遺伝子を引き継ぐのに都合がいいからと言って、仕方なく”犠牲になる用”の命が作られているなんて悲しいと感じるのではないだろうか。ましてや自分が種族の遺伝子を未来へ引き継ぐための、痛い思いをして恐怖の中八つ裂きにされて他の生物に食べられて赤ちゃんのままその命が終わる”犠牲になるための命”に喜んでなりたいと願うだろうか、いや願わないだろう。
魚やクラゲは自分の遺伝子を上手に残すために、”犠牲になる用の命””食べられる用の命”をたくさん生成した。それは彼らが食べられる代わりに食べられなかったり逃げられたりする命があるので種族の遺伝子を守ることに十分貢献しており、”不要な命”とまでは呼べないものの種族のために”死んでもいい命”がこの世にはあるのだということを思い知らせてくれる。
魚やクラゲに心があるのちょっとよく知らないが、ないのならそれは幸せなことではないだろうか。魚やクラゲにもしも心があったなら、このような理不尽な命のシステムに耐え忍ぶことができるのだろうか。
・”犠牲になる用の命”は人間にもあるのか
しかしこれは他人事ではないのかもしれない。もしも全ての生命のシステムが魚やクラゲのように、種族の遺伝子を引き継ぐという”集団の幸福”のために、食べられたり八つ裂きにされたり死んでも構わないという”犠牲となる個体”が存在しているというのなら、それは人間にも当てはまるのかもしれない。
もしかして人間にも魚やクラゲと同じように”死んでもいい命”があるのだろうか。人間の集団の幸福のために、犠牲になっても構わないとみなされる人間個人の幸福もあるのだろうか。そのようなことはぼくたち人間にとっては、あってはならない、ないように願いたいシステムである。「この世には死んでもいい人間の命があるんだ!」なんて、道徳的には口が裂けても言えるものではない。
しかし魚やクラゲやその他の生物がそのような犠牲システムで自らの種族を成り立たせているのに、人間という種族だけそのような運命を免れているという都合のいい確証が、本当にあるのだろうか。
・人間の集団のために犠牲になる個人
人間は社会的な生き物だ。寄り集まって、群れをなして、集団的に活動することで、自らの役割を担い、お互いに補い合いながら文化的な生活を享受している。したがって完全に自立して、孤独に生活することは不可能に近いと思われるので、人間には社会で生きやすい能力、集団としてやっていく性質が求められるようだ。つまりは協調性があるということだろうか。
人間が集団としての平和を保つために、必要な条件とは何だろうか。人間が集団としての機能を維持し、人間の集団としての幸福がもたらされるためには、どのような人間の個体が必要だろうか。それは自分の思いを主張せず、他人を思いやり、おとなしく上からの言うことを聞くような従順な人間が増えることではないだろうか。
悪いとは思っていなくても「申し訳ありませんでした」と謝罪できる人間、感謝の思いなどなくても「ありがとうございました」と頭を下げられる人間、変な髪型をしていると感じる相手にも「とても素敵な髪型ですね!」とお世辞を言える人間。自分の本当の気持ちを主張せず、その場限りの嘘を上手につき、他人を思いやれるような人間がたくさん集まることで、人間社会の平和は成り立っている。
これが自分は悪いとは思っていないから「なんでこっちが謝らなあかんねんアホか!!!」と自分の心を正直に主張してキレる人間だったり、変な髪型をしている人に向かって「あなた誰がどう見てもヘンテコリンな髪型をしているよ!」と思いやりを持たずに自分の意見を曲げずに率直に主張する人間ばかりになってしまっては、人間社会はそこらへんで戦争が勃発し、円滑には回らない。みんな自分の本当の気持ちを押さえ込んで、思ってもいない嘘を上手につきまくっているからこそ、人間社会は平穏を保っているのだ。それが人間社会が望んでいる平和の正体である。
またこれは儒教社会に限られることかもしれないが、上司の主張に部下は従順におとなしく従うことが日本では求められる。自分がその考えはおかしいと心の中で感じていても、上司相手だと主張しないのが”賢い”社会人のあり方のようだ。
ぼくたちは人間として生きているのだからしっかりとした自分の意見を持っている。しかし自分の意見を相手にぶつけることにより、議論を交わし、よりよい結果を創造しようと図っても、儒教社会においては目上に自分の意見を主張することは”反逆”だと見なされて厭われる可能性があるので注意が必要だ。儒教社会ではおとなしく、自分の意見を持たない、機械か部品のような部下が好まれる傾向がある。しかし自分の意見を世界に向かって表現できないのなら、ぼくたちは何のためにこの世に生まれてきたのだろうか。
・個人の幸福と集団の幸福の関係
ぼくたちの人間社会を注意深く観察してみれば、人間の集団が平和と幸福に満たされるために、個人が我慢したり嘘つきになったり虐げられたりして、個人が犠牲になっている様子はいくらでも思いつくことができる。
個人の幸福とは間違いなく、自らを正直に世界に向かって表現できることだ。嘘などつかずに、気などつかわずに、ありのままに泣いたり笑ったりして自らを表現できる瞬間ほど素晴らしいものはない。しかし集団の幸福は、構成する個人が自らをありのままに表現しないことだ。個人には集団の平和と幸福のために、我慢をし、嘘をつき、違和感を覚えてもストレスと感じても、集団という”神”に仕える奴隷のように自らを抑圧させることが望ましい。
普通に考えれば、個人が幸福になればなるほど集団は幸福になり、集団が幸福になればなるほど個人にも幸福がもたらされるような気がする。しかし、魚や、クラゲや、ぼくたち人間を見ていても、意外とそうではなくむしろ真逆であることに気づかされる。
個人が幸福になればなるほど集団の幸福は脅かされ、集団が幸福になればなるほど個人の幸福はないがしろになれる。このような矛盾と不条理に満ちた人間社会を、ぼくたちはどう生き抜いて行くべきだろか。
・自我を持っている限りぼくたちは自らの幸福を追求する
魚やクラゲは自我を持っているのだろか。よくわからないが、なんとなく持っていないような気がする。ぼくたち人間には自我がもたらされた。自分を自分だと認識できる限り、自分は他人とは違う自分なのだと確信できる限り、ぼくたちは自分の幸福を最大限に追求されることを許されている。
自我を持つぼくたちにとって、この世界で誰よりも自分が一番可愛いし、この世界で誰よりも自分を最も大切にしたいし、この世界で誰よりも自分を思いやりたいし、誰がなんと言おうと心の根源の空間では自分がこの世界の王様なのだ。どんなに成熟した大人のふりをして、自分なんて駄目なヤツですと世界に向かって取り繕うことができるようになっても、自分の根源に過去の自分という少年が死なずに生き続けている限り、真実においては人間は誰もが自分はこの世界の王様だと信じている。
本当は自分が一番に優先されたい、本当は他人など思いやりたくない、本当は誰もが自分を愛してほしい、そんな風に思うのは、”自我”を持っている限り正常な心理状態であり、決して異常な願いではない。そんなぼくたちが、自我を享受してしまったぼくたちが、魚やクラゲのように集団のために”犠牲にされる用”の命としてこの世で生きるということに、我慢などできるはずがない。しかし我慢しなければ人間社会から除け者にされてしまう。給料がもらえずにご飯を食べられなくなってしまうかもしれない。自我を持ち合わせているのに、やはり集団の平和と幸福のために自らの幸福を集団という神に捧げるしかないのだろうか。
・徹底的な個人の幸福の先に立ち現れる集団の幸福の真実
自我を持ってしまったぼくたちが、この引き裂かれるような矛盾において救済される方法はただひとつ、集団の幸福を無視して正直に自らの幸福を追求することではないだろうか。
ぼくたちは追求できる。集団と個人の矛盾の海を退いて、自分のための自分だけの幸福を。
自分のためだけに徹底的に生き抜いた先に待ち構えるものは、一体なんだろうか。人間社会に馴染めず給料がもらえないゆえの犯罪だろうか。食べるものも買えなくなって孤独のまま見つかる餓死だろうか。その先にあるものが何かわからないから、人々は恐れをなして自らのために徹底的に生きることを尻込みしてしまう。飛翔する翼を折りたたんでしまう。そんな生き方ができるわけがないと、安全に生き延びる方が賢いからと、何かしらの言い訳や理由をつけてまた再び矛盾の暗黒の海に飛び込んでしまう。もう二度と息ができなくなるまで。
徹底的に自分のために生き抜いた先に立ち現れる世界は、矛盾するように、人間集団の幸福ではないだろうか。徹底的な孤独の奥底には、圧倒的に広がる人間集団の世界が隠れているのではないだろうか。これはぼくの直感だ。証明はない。徹底的な白の先には黒の世界が広がり、徹底的な死の先には生の再生があり、徹底的な孤独の先には集団が待っている。あらゆる概念はその極限同士で輪廻転生している。そしてそのようにして孤独の先に取得した集団の感覚こそ、真実の集団の感覚ではないだろうか。
本当の集団というものを知るためには、徹底的に孤独になる必要がある。集団の性質を知りたいからといって、調査をしてやろうとして中途半端に集団に馴染んでみるような人間は浅はかだ。本当の人間集団の真理を知りたければ、その先に立ち現れる集団の真理を信じて、徹底的に孤独になるべきだ。
ぼくたちが心から人間集団の幸福を願うなら、まず個人を犠牲にして集団に馴染むことを止め、徹底的な孤独に自らの肉体と精神を浸さなければならない。自らの幸福を犠牲にせず、自らを徹底的に愛し、自らの幸福を徹底的に追求したその先でこそ、人間を心から愛し、人間の幸福を心から願える。