ぼくたちは自分の生きている時間を売って、お金を得ている。
人間の命の価値は平等じゃないというのは本当か?を労働の観点から考察する
・「労働する日々」と「労働しない日々」の両方を体験した人生
・ぼくたちは人生の時間を売り、お金をもらう
・労働が教えるぼくたちの生命の価値
・人間の命の価値は平等じゃないというのは本当か?
・同じ1日という時間を売っても、人によってもらえるお金の量が違う理由
・「人間の生命は誰もが平等で同じ価値がある」という直感を信じて
目次
・「労働する日々」と「労働しない日々」の両方を体験した人生
人間は普通、労働してお金を稼ぎながら生活を営んでいる。世間では学生時代が終われば定年までずっと労働し続けてお金を稼ぐことが当たり前だと思われているが、必ずしも全ての人生がそのようなパターンに当てはまるとは限らないだろう。必死に労働して、節約して、貯金して、そのお金で本当に自分が人生でやりたかったことを実現するような場合もあるに違いない。
ぼくの場合も医者として3年間働いた後は、その貯金を駆使してずっと自分の使命だと感じていた世界一周の旅に出た。旅というのは基本的に消費行動なのでお金を使うだけの日々を送り、ブログで小銭を稼ぐ以外には一切労働を行わなかった。世界一周の旅は新型コロナワクチンの影響で一旦中断せざるを得なくなり、マイカーで壮大な日本一周の旅をしたりして旅する日々は継続していたが、最近コロナワクチン接種に医師が必要不可欠だということを知り、今しかできない貴重な体験だと思ったことでコロナワクチン接種のバイトを始めたりして、久しぶりに労働する日々を送っている。
このようにして「労働する日々」と「労働しない日々」を明確に分けながら、人生の若いうちにどちらも経験したことのある人というのはもしかしたら珍しいのかもしれない。ぼくは「労働する日々」と「労働しない日々」を両方しっかりと経験した中で、それらの2つの日々を対しながら労働というものの正体について考えざるを得なくなった。
・ぼくたちは人生の時間を売り、お金をもらう
労働というのは人間にとって根本的な行動であり、古代より脈々と受け継がれ人間の生活に組み込まれていたものであるから、あまりに複雑で奥深く様々な要素を含んでおり、とてもその全貌を見極めることは難しいだろう。しかし人間として生まれつき、労働に従事する運命にある者のひとりとして、やはり労働について可能な限り考察せずにはいられないだろう。労働には複雑なたくさんの要素が含まれているけれど、それをひとつひとつ謎解いていこうとする継続的な姿勢を崩してはならないのだ。
ぼくが旅する日々を中断し久々にコロナワクチンバイトという労働を開始して感じることは、「労働とは自分の人生の時間を売ってお金を稼いでいる」ということだ。もちろんこれは労働の一面に過ぎないのだが、最も重要な一面のひとつだと思われる。
ぼくは本来ならば自分の直感や情熱や本能が指し示す行為を常に成し遂げるべきはずなのに、そんな人生の貴重な時間をわざわざ労働という行動にあてがうことによって、その結果や対価として給料というお金を与えられるのだ。具体的に言えばぼくは自分の直感や情熱や本能が指し示す「旅」という行為を今だってしていたいしすべきだと感じるけれど、敢えてその情熱や欲求や使命感を抑えて、本当は自分にとって旅よりも全然重要ではない「労働」という行為に人生の貴重な時間を捧げることによってお金をもらう日々を送っている。つまりぼくは人生の若い時代の貴重な時間(1日8時間くらい)を誰かに売ることによって、お金を得ているというような感覚だ。
労働には責任が伴うので、その日に労働があるとすればその日1日は労働のことばかりを考え、労働を中心にしてその日全体を過ごさなければならない。すなわち労働が1日に8時間だけだったとしても、労働する8時間だけではなくその日全部の時間を労働に捧げているような印象を受けないだろうか。たとえ労働が終わった後でも疲れ切ってしまい、自分の好きなことをしようという気力はあまり起こらない。ぼくたちは若い時代の貴重な1日を労働に費やし、1日分の時間を売ることで生きるためのお金を儲けている。
・労働が教えるぼくたちの生命の価値
まとめると労働の一面として、労働とはお金のために自分の人生の時間を売ることだ。自分の人生の時間というのは、人生そのものとも言い換えられるだろうし、命そのものとも言い表すことができるだろう。ぼくたちは自分の命を売って、労働という現象を通して、お金を稼いでいるのだ。すなわち稼いだお金というのは、ぼくたちの生命そのものである。
ぼくが気になるのは、給料って本当にぼくたちの人生のうちの若い時代の貴重な1日分の価値を反映してくれているのだろうかということだ。職業や人によって労働で1日に稼げる金額は異なっているだろうが、例えば1日に1万円稼ぐ人がいて、その人の1日分の命って本当に1万円だけなのだろうか。
命というものに価値はつけられない、命はかけがえのないものだ、命はプライスレスだという美しい言葉たちが世の中で溢れているが、しかしぼくたちは労働という行為を通して、確実に自分たちの生命に値段がつけられていることに注目すべきである。すなわち1日に1万円稼ぐ人ならば、その人の1日分の命の価値は1万円だと宣言されているに等しいのだ。
具合的にぼくの労働を例に出すと、医師のコロナワクチンのバイトの給料は高く1日に10万円ほどもらえるし、いい案件をゲットできれば1日だけで20万円稼ぎ出すことも可能だ。常識的に言えば、1日に10万円ももらえて不満を持つということはないだろう。それだけもらえれば十分に生活を立てることは可能だし、贅沢な暮らしだって許されてしまうだろう。にもかかららず「労働する日々」と「労働しない日々」を両方経験してしまったぼくは思案せずにはいられない。ぼくの若い時代のなんでもできる素晴らしい尊い1日って、本当に10万円の価値しかないのだろうか、と。
ぼくの価値観で言えば、誰の命であろうと若い時代のなんでもできる1日って、はっきり言って1億円以上の価値があるのではないだろうか。というか1億円でも絶対に足りないし、本当に人生の1日って価値がつけられないくらい尊いものではないだろうか。ぼくは労働していて感じる。本当は価値がつけられないほどに尊い人生の時間を、ぼくたちはものすごく安い値段で買い叩かれているのだと。1ヶ月に30万円もらえれば十分な給料だと人々は思うだろう。しかしぼくたちの人生の美しく若い尊い時間の1ヶ月分が、本来ならば30万円なんかで買えるはずがない。ぼくたちは誤魔化されているし、騙されているし、洗脳されているし、思考停止してそれに気づかずに盲目的に労働している人が多すぎる。
・人間の命の価値は平等じゃないというのは本当か?
人間の生命は皆平等であると、ぼくたちは教えられる。実際に病院ではその信念にのっとり、どんな種類の人の命でも差別なく、区別なく、平等に治療し、生命を救うことに尽力していることは、医師として働いてきたぼくがとてもよくわかっている。
しかし労働という怪しい行為が、ぼくたちの生命に値段をつける。人間にはそれぞれ1日に稼げる金額が大体決まっている。1日に100万円稼げる人もいれば、1日に10万円を儲ける人、1日に1万円をもらう人もあれば、1日に100円の人だってあるだろう。同じ「生命の1日」という時間を労働として売っても、その値段に大きな差がついてしまうことは人間社会を見渡せば明らかな事実だ。
労働し金を稼ぐために人は生まれてきたんだと洗脳されたこの世の中では、ぼくたちの1日には値札がつけられている。1日が100万円の人もあれば、1日が1円の人もある。労働を通して1日に値札がつけられるということは、すなわち人生は1日1日の連なりであるから、ぼくたちの人生や生命にも値札がつけられているということを意味する。ぼくたちの1日の値段を足し算していけば、やがてはぼくたちの一生や生命の値段が計算される。そしてその生命の値段は、人によって様々となる。人間の生命の価値はぼくたちが昔教えられたようにみんな同じなんかじゃない、生命は決して平等な価値を与えられていないと、労働する人間社会はぼくたちに語りかけ、解き明かしてくる。
・同じ1日という時間を売っても、人によってもらえるお金の量が違う理由
なぜ一生の値段が人によって違うのかという問いかけは、なぜ1日に稼げる金額が人によって違うのかという問いかけに収束する。人によって1日に稼げるお金の量が全然違うのは、人間社会の様子を見渡せば誰だって知っている。同じように必死に1日働いて、同じように1日という時間を労働として売っても、1日に1万円の人もいれば10万円の人だっているのだ。
平凡な思考力を働かせれば、比較的誰にでもできるような内容の職業は給料が低く、高い能力や技術や専門性を持っていなければできない職業は給料が高いというのが、社会の仕組みというか傾向なのだろうと思われる。経済のことはよくわからないが、結局需要と供給のバランスや、資格による労働の独占などの要素も深く関わっているのだろう。何にせよ労働という観点から人生を見れば、生命ですら経済に飲み込まれ、値札をつけられ、比較され、相対化され、結局はぼくたちには価値のある人間とそんなに価値のない人間が存在するという悲しい風景へと導かれてしまう。本当にそれでいいのだろうか。
・「人間の生命は誰もが平等で同じ価値がある」という直感を信じて
このように長々と労働について論じてきたにもかかわらず、結局はぼくたちは心の奥底で、直感的に、人間の生命は誰もが平等で同じ価値があると固く信じているのではないだろうか。きっと理屈なしに、ほとんどの人間が「人間の生命は誰もが平等で同じ価値がある」という感性を共有しているようにぼくには感じられる。この感性を正しいものとして、この感性を前提として人生を考えていくならば、やはり間違っているのは労働をして当たり前、労働してお金を稼ぐためにぼくたちは生まれてきたのだと洗脳され信じ込んでいる”人間社会の側”ではないだろうか。
労働はぼくたちの生命に値札をつけた。値札には必ず数字が書かれる。ぼくたちは数字を見れば、それを比べずにはいられない。ぼくたちの生命は比較されるものとなった。ぼくたちの生命は相対的なものとなった。ぼくたちの生命には上下ができた。ぼくたちの生命には価値のあるものと価値のないものに分かれた。ぼくたちの生命は平等ではなくなった。
しかし本当は気づいている。生命とは相対的なものではなく、絶対的な価値を持つものだと。全ての生命が絶対的な価値を持つ限り、生命に数字がつけられることはなく、値札に支配されることもなく、それぞれの生命がそれぞれに比較されない絶対的な価値を解き放ちながら、並べられることのない独自の色彩と輝きを見つけるだろう。間違っていたのは人間は労働するために生まれてくるのだという価値観と、人間を都合のよい部品にして、個人の幸福を踏みつけにしながらでも集団全体の利益を追求しようとする、労働そのものに宿る意図だ。
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