中島みゆきの人殺しの歌5選!殺してしまおうと歌で表現してもいいというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

「あいつなんて殺してしまおう!!!!!」

中島みゆきの人殺しの歌5選!殺してしまおうと歌で表現してもいいというのは本当か?

・中島みゆきには「人殺し」の歌が散見される
・あの娘「たとえばあの娘を殺しても…」
・たとえ世界が空から落ちても「殺し屋だろうと」
・それ以上言わないで「あなたを殺したかった」
・た・わ・わ「お前を殺したい」
・殺してしまおう「殺して 殺して しまおう うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉい!!!!!」

・中島みゆきには「人殺し」の歌が散見される

ぼくは小さい頃クレヨンしんちゃんが好きだったので、しんちゃんの真似をして「おやつ」のことを「おつや」と言ってお母さんを怒らせたことがある。そんな言葉を絶対に使っていけないと叱られたのだ。しかしなぜ「おつや」と言ってはいけないのかの説明がなかったのでたいそう不満だった。今考えれば「おつや」というのは「お通夜」と音が一緒なので、死を暗示させるものや連想させる言葉を日常生活で使ってはいけないという忌みの思想がお母さんの心の中にあったのだろう。

このように死を連想させる言葉を使うということは人間界ではタブーとされる傾向がある。よく仲のよい友達同士で「死ねよ!」などとじゃれてと言うこともあるが、本来「死ね」という言葉は人間社会では使ってはならないとされている言葉だろう。「死ね」という言葉すらだめなのだから「殺す」とか「お前を殺す」などの言葉を使用するのはもってのほかである。もしかしたら警察に通報されるかもしれないし、いくら親しい間柄の人でじゃれ合っている時でさえ使うべきではないと考えられる。

人生は仏教的には苦しみの連続!生きることは素晴らしいというのは本当か?

日本人の純粋な死生観の正体とは!ぼくたちは死の先でまた巡り会えるというのは本当か?

日本人の本当の死生観とは?!日本人が仏教的な生まれ変わり(輪廻転生)を信じているというのは本当か?

人間が老いていくというのは本当か? 〜時を止めた少年〜

病気や死が人間の敵であるというのは本当か? 〜医学の最果て〜

ぼくたちは死なないために生きているというのは本当か? 〜死に近い海は命を励起する〜

人は死んだらそれで終わりだというのは本当か? 〜四季の廻転、生命の廻転〜

高畑勲監督「かぐや姫の物語」の魅力を徹底考察!生まれ変わる輪廻転生は苦しみであるというのは本当か?

人は喪失に向かって歩いていけるというのは本当か? 〜人生は死への道〜

しかしぼくたち人間はいつか死ぬ運命であり、「死」も自らの確実な一部であるにもかかわらず、そんなにも死を忌み嫌って避けながら生きていてもいいのだろうか。いくら死の表現を日常生活で避けていたところで、確実に死はぼくたちを迎えにくるのだ。ぼくたちはもっと死について向き合い、深く考え、死について大いに表現すべきではないだろうか。

「死」について表現することや、もっと過激に「殺す」ということを表現するためには、表現者にはそれなりの覚悟が必要になることだろう。「死」について慣習的に、常識的に忌み嫌っている民衆たちに向かって「殺す」という表現を投げかけることはリスクが高すぎる。しかし表現者が「死」についてきちんと向き合い、深く考え、直感的にそして心情的にどうしても「殺す」ということを表現したくてたまらなくなったときには、ぼくたちはその表現を受け入れるべきではないだろうか。それを忌み嫌うのではなくむしろその勇気と覚悟に尊敬と感謝の念を抱き、ニュートラルに享受すべきではないだろうか。

中島みゆきにはドキリとしてしまうような”人殺し”の歌がいくつか散見される。他のアーティストよりは明らかに多いのではないだろうか。夜会「2/2」では「あの子は人殺しだ」と遠い昔に誤って言われた心の傷が、記憶が消え失せてもずっと残り主人公の女性に奇行を働かせていた。中島みゆきの作品の中には「人殺し」が色濃く反映され、もはや社会の正しさや常識が思考停止で「死」を忌み嫌っているからと言って、「人殺し」の歌を避けて中島みゆきの表現を受け取ることはできない。ここでは彼女の表現に対する勇気と覚悟を敬いながら、中島みゆきの「人殺し」の歌について5つを取り上げてまとめてみようと思う。

 

 

・あの娘「たとえばあの娘を殺しても…」

あの娘の名前を真似たなら 私を愛してくれますか
あの娘の口癖真似たなら 私を愛してくれますか
あの娘の化粧を真似たなら 私を愛してくれますか
あの娘をたとえば殺しても あなたは私を愛さない

ゆう子あい子りょう子けい子まち子かずみひろ子まゆみ
似たような名前はいくらもあるのに 私じゃ駄目ネ
綺麗ね可憐ね素直ね比べりゃあのこが天使
妬いても泣いてもあのこにゃなれない 私じゃ駄目ネ

この世には様々な似たような名前の女がいるのに、”あなた”に決して愛されることがないという”私”の運命を切実に悲しげに歌い上げている。この場合の「人殺し」は”たとえばあの娘を殺しても”と仮定法が用いられており英作文の問題などに出題されそうな文章である。殺すというのはたとえ話であり、実際に殺しているわけではないのでまだ救いがあると言える。

”あの娘をたとえば殺しても あなたは私を愛さない”という歌詞は、たとえこの世界で何が起こっても、どんな間違いが起こっても、天地がひっくり返ってもあなたは私を愛することはないだろうという確信の言い換えであり、「殺す」という言葉がこのように世界の究極的状況を示唆するために用いられるということは注目に値する。

 

・たとえ世界が空から落ちても「殺し屋だろうと」

優しい人は 誰だって好き
札付きだろうと 殺し屋だろうと
優しいことを言ってくれるなら

たとえ世界が空から落ちても 私はあの人をかばう
優しくしてくれるなら

中島みゆきというのは、極端な究極の表現が好きらしい。この歌詞でも”札付き(悪い評判が定着していること)”だろうと、たとえ”殺し屋”だろうと、優しい人ならば分別なしにかばってしまうという女心が見え隠れしている。この場合の”殺し屋”も「あの娘」と同様に、究極的な罪人の言い換えだろう。たとえどんなに悪いことをした人でさえかばうというその極悪さの究極性を示すために、敢えて”殺し屋”という表現が用いられている。

殺し屋でさえ優しくしてくれるなら好きになってしまうなんてなんて馬鹿な女なんだと解釈する人もあるかもしれないが、殺し屋からすれば人殺しなのにかばってくれる女性がいるなんてありがたくて嬉しい限りである。もしかしたら自分は人殺しだからもはや誰にも肯定されないと憂い惑い悲しんで生きている罪人がこの歌を聴くと救われることもあるかもしれない。この歌は、どんな罪人でさえ私はかばうという慈悲深い母のような女性の歌にも聞こえる。ぼくたちは生きている限り多かれ少なかれみんな罪人だ。こんな罪深い自分を愛してくれる人なんていないと思い悩んでいるときに、ぼくたちはこの歌を聞くべきではないか。

浄土真宗・親鸞の説く「悪人正機」の思想とは!悪人は地獄へ落ちるというのは本当か? 

罪の所存は罪人にだけあるというのは本当か? 〜森羅万象はつながっている〜

あなたが罪深いというのは本当か? 〜植え付けられた者たちへ〜

殺しや盗みが罪であるというのは本当か? 〜どうしようもない悪を抱えて〜

人が罪を犯してはならない理由は自分自身に呪いをかけないため!罪を犯してはいけないというのは本当か?

この「たとえ世界が空から落ちても」が収録されているオリジナルアルバム「グッバイガール」には、「十二月」に自殺する若い女の歌が収録されていたり、「愛よりも」には

嘘をつきなさい 物を盗りなさい
悪人になり
傷をつけなさい 春を売りなさい
悪人になり

救いなど待つよりも罪は軽い

という歌詞が歌われていたりして、死や罪の深い概念を湛えている。ぼくのお気に入りオリジナルアルバムのひとつであり、中島みゆきのアルバムの中でも最も優れた一枚だと感じる。

 

・それ以上言わないで「あなたを殺したかった」

もしも私に勇気があれば
ここであなたを殺したかった
あの娘にあげる 心はあげる
せめて私に命を欲しい

「君は強い女だから大丈夫!だけどあの娘にはぼくが必要なんだ」と別れを告げられた女性の切ない歌。この歌でもあなたを殺すというのは”もしも”と仮定に留まってはいるものの、「あの娘」の場合とは違い、単なる仮定ではなく”あなたを殺したかった”と願望が入り混じっていることがポイントである。しかし殺したかったのは過去の話であるので、今殺したいと発狂しているわけではないのでまだ救いが残されている。

 

 

・た・わ・わ「お前を殺したい」

た・わ・わ お前を殺したい
た・わ・わ あいつをとらないで

この歌詞はもはや過去に殺したかったと回想しているわけではなく、今まさに殺したいという狂気が渦巻いている女性の歌であるから「お前」という人物は今すぐ中島みゆきから逃げる必要があるだろう。この歌はどんな男性も振り向いてしまうくらい胸がたわわでめちゃくちゃエロくてセクシーな女性に対して中島みゆきが「あいつ(おそらく意中の男性)をとらないでくれ」と嘆いている歌なのだが、それだけだとなんだか間抜けな感じがしてしまう。けれど「お前(エロくてセクシーな女性)を殺したい」という殺しの一文を付け加えることで、あいつを悩殺しないでほしいという女性の切実さや真剣さ、または威勢のよさまで伝わってきて、なんだか聞いていてスッキリしたような気持ちになる曲である。

 

 

・殺してしまおう「殺して 殺して しまおう うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉい!!!!!」

もう騙されないわ あいつなんか
殺してしまおう!
殺してしまおう!!
殺してしまおう!!!

中島みゆきの人殺しの歌の最終形態は、まさにそのままの題名「殺してしまおう」!この歌詞は「それ以上言わないで」のように「殺したかった」と回想しているわけでもないし、「た・わ・わ」のように「殺したい」とただ心の中で願っているだけでもない、まさに、今から、男の家に乗り込んで「殺してしまおう」と意気込んでいる女の執念が燃えていて、恐怖で失神ものの一曲である。しかもこの曲は音源化されておらず夜会「邯鄲」のDVDの中でしか聞くことができないのだが、その映像がまさに狂気の沙汰なのだ!なんと腰の曲がった長い白髪の老婆に扮した中島みゆきが、死の間際に舞台の床を這いずり回りながら「殺してしまおう!」と歌っているのだからまさに妖怪のようである。一度見たら夢にまで出てきそうな恐ろしさだ。

しかしこの老婆も何も理由がなく殺してしまおうと叫んでいるわけではない。理由はその前の歌詞をみればなんとなく理解できる。

待てばいい女 とてもいい女
拗ねずゴネず責めず懲りず待ついい女
耐えるいい女 都合いい女
君はなれる 君はできる 理想の女

とかなんとか言われておだてに乗って
いつか愛される時を待った
待って 待って 待って 忘れられた
私の立場はどうなるの!

待つんじゃなかった 待つだけ損した

もう騙されないわ あいつなんか
殺してしまおう
殺してしまおう
殺してしまおう

この夜会「邯鄲」ではまさに中国の故事「邯鄲の夢」のように中島みゆきが女性の一生の栄枯盛衰を夢に見る。あどけない無垢な少女時代から始まり、徐々に成長を遂げ、女性としての盛りを迎え栄華を極めるが、そんな女性もやがては腰の曲がった老婆となり、男にも見捨てられ惨めな最期を遂げようとしているときに、こんな目に遭わせた男性に対して「殺してしまおう!」と吠えているのだ。歌は次のように続く。

男なんて何さ あいつなんて何さ
花になれの母になれの港になれの
注文ばかりを人に出して置いて
自分だけは広く浅く博愛主義者

でも私がきっと最後の女
いつか愛される時を待った
待って 待って 待って 忘れられた
私の立場はどうなるの!

待つんじゃなかった 待つだけ損した

もう騙されないわ あいつなんか
殺してしまおう
殺してしまおう
殺してしまおう

結局老婆は「殺してしまおう!」と意気込んでいる最中にお迎えが来て死んでしまうのだが、そこで夢は覚め、結局は女性として愛されることよりも、自分が愛することの方がはるかに重要だと気づくという感動的なストーリーだ。しかしたとえ女であっても愛されることよりも愛することの方が重要だというメッセージは、腰の曲がった白髪の不気味な中島みゆきが「殺してしまおう!殺してしまおう!!殺して 殺して しまおう うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉい!!!!!」と暴れ狂う場面の前では少し霞んでしまうかもしれない、それくらいインパクトのある名場面だ。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

中島みゆき夜会「橋の下のアルカディア」のあらすじと曲目と考察!社会の幸福は個人の犠牲によってしか成り立たないというのは本当か?

相手が期待する言葉を返して生きればいいというのは本当か?〜中島みゆき「問う女」と「エコー」〜

中島みゆき夜会「問う女」と毛虫の関係!自分がか弱い存在だからと言ってあらゆる他者を傷つけてもいいというのは本当か?

こんなはずの人生ではなかったというのは本当か? 〜中島みゆき「24時着0時発」とぼくたちの母川回帰〜

中島みゆき夜会「リトル・トーキョー」のクライマックス!仏教用語「放生」が身近な言葉だというのは本当か?

中島みゆき夜会「邯鄲」あらすじと名曲「I love him」を徹底考察!モテること愛されることが愛することよりも重要だというのは本当か?

 

関連記事